赤穂浪士一行は、 現在の浜松町一丁目交差点で、東海道(現在の第一京浜)に出てきました。
これ以降は、東海道を泉岳寺まで引き上げていきました。
浜松町駅北口から徒歩3分で、第一京浜からは少し東に入った「港区立エコプラザ」 (旧神明小学校) に「福沢・近藤両翁学塾跡」と書かれた碑が建っています。

慶応義塾の始まりは、築地鉄砲洲の中津藩奥平家の屋敷内(総坪数約4063坪)に在った福沢諭吉の家塾ですが、慶応4年、鉄砲洲一帯の海岸地が外国人居留地となったため、奥平家中屋敷を引き払わなければならなくなり、芝新銭座(しんせんざ)の有馬家中屋敷の一部を買い取りました。
そして、新たに建物を建てて時の年号に因んでこれを慶応義塾と名付けました。
「義塾」という言葉は福沢諭吉は学校という普通名詞と同じ意味で命名したのだそうです。
塾を移転した慶応4年は江戸時代最後の年で江戸城の無血開城や上野戦争が起きた年です。
こうした騒々しい時期にも、福沢諭吉は、教育中心の生活をおくっていて、上野戦争中の授業はやめませんでした。

慶応義塾は明治4年に現在慶応大学のある三田に移りました。
この移転のきっかけは明治3年に福澤諭吉が発疹チフスに罹ったことにありました。
福沢諭吉は命は事なきを得ましたが、慶應4年に鉄砲洲から移ったばかりの新銭座の土地でしたが、実際に住んでみると「何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるから、どこかに引き移りたい」(福翁自伝)と考えるようになりました。
そこで手分けして適当な場所を物色した末、三田にある島原藩の中屋敷が乾燥しているし海浜の眺望もよいということで明治新政府に拝借を働きかけて実現したそうです。

「攻玉社」は、現在、東急目黒線「不動前」駅そばの品川区西五反田に、中学校と高校があります。
一世紀以上の歴史を有する伝統校で、戦前は海軍兵学校への予備校的存在として位置づけられていたそうです。
攻玉社は明治時代の六大教育家の一人である近藤真琴により創設された学校です。
校名は詩経の「他山の石以て玉を攻(みが)くべし」から引用したものだそうです。
明治の六大教育家とは次の6人をいいます。
大木喬任(文部卿)、森有礼(文部大臣)、中村正直(同人社創者)、新島襄(同志社創立者)、 福澤諭吉(慶應義塾創立者)、そして、近藤真琴です。
近藤真琴という人は、現在はあまり知られていませんが、福沢諭吉や新島襄と並ぶ偉大な人物ですね。
赤印が「福沢・近藤両翁学塾跡」の碑がある場所です。