現在の田町駅の目の前には、元禄時代には、岡崎藩主であった水野家の中屋敷がありました。
藩主水野忠之は、8代将軍吉宗の時に筆頭老中となり、吉宗の享保の改革を担う重要な役割をはたしますが、当時は、元禄12(1699)年実家の兄忠盈の死により遺領を継ぎ岡崎藩主となったばかりでした。しかし、刃傷事件発生時には、鉄砲洲の上屋敷に行き、藩士の動揺を取り押さえていました。
泉岳寺に向かった赤穂浪士一行は、当日中に、大名4家に御預けとなりますが、その一つが岡崎藩水野家でした。
この水野家については、過去に書いていますので、 「水野忠之と水野監物邸跡碑」 をご覧ください。
さて、浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。
左写真は田町駅側から見た札の辻の交差点です。札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。
「札の辻」というの地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。
埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。
また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。
その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて 六大高札場と呼ばれていました。 六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。
元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。そして、高札場は、後に 天和3年(1683) に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されましたと港区教育委員会の説明板には書かれています。
なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設とのことこっちが正しいのは確認できていません。
高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は 「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。

