河竹黙阿弥は、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、明治の文豪坪内逍遥は、河竹黙阿弥を「日本のシェークスピア」と讃えています。
河竹黙阿弥は、分化13年(1816)に日本橋の越前屋勘兵衛の長男として生まれました。
若いときから遊蕩にふけり、14歳で勘当されて、貸本屋の手代となったこともあったようです。
天保6年(1835)、20歳のときに5代目鶴屋南北の門に入り、狂言作者見習となりました。
天保14年には2代目河竹新七を名乗って江戸河原崎座の立作者となりました。
嘉永7年(1854)、4代目市川小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が当たりをとり市川小団次に認められ、 以後、慶応2年(1866)に小団次が亡くなるまで,彼のために多くの傑作を書きました。
天保14年(1843)天保の改革で水野忠邦により江戸三座が浅草猿若町に移転させられると、河竹黙阿弥も間もなく芝から浅草の浅草寺の子院である正智院の地内に住まいを移しました。
現在、雷門と宝蔵門の間は、仲見世となっていますが、江戸時代には、雷門と仁王門(現在の宝蔵門にあたる)の間には、浅草寺の子院が建ち並んでいました。
正智院も、そうした子院の一つでした。
正智院の地内(じない)に住んでいるので「地内の師匠」と呼ばれるようになりました。
そして、明治20年に本所に引っ越しするまで、浅草で暮らしました。
仲見世の中ほどの横丁を東に入ると仲見世会館があります。
その正面横に「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」が建っています。(右上写真)
また、浅草神社の境内には、「河竹黙阿弥翁顕彰碑」が建てられています。
左写真の右側の碑が顕彰碑です。
赤印が「河竹黙阿弥翁住居跡之碑」です。仲見世会館の入り口脇にあります。