その途中に、「畠山重忠公史跡公園」がありますので、そこによってきました。
畠山重忠は、江戸とも関係があるのです。
江戸の領主は江戸氏と言うのは、よく御存じだと思います。
この江戸氏は秩父平氏の一族で、畠山氏とは同族なんです。
江戸氏は、秩父平氏の秩父重綱の第四子重継から始まります。
その長子重長は、「江戸大福長者」と呼ばれていたとして歴史書上、初めて「江戸」の名前が出てくるようです。秩父平氏は、桓武平氏の一族で、平将門の叔父である平良文から始まります。
良文の孫将常の時に、秩父を本拠としたため、秩父平氏と呼ばれるようになりました。
そして4代後の秩父重綱の嫡子重弘の子重能(しげよし)の時に、荒川の下流の武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市畠山)に本拠を移しました。
それ以降は、秩父氏でなく、畠山氏を名乗ります。そして、重能の嫡子が畠山重忠です。
畠山重忠の居館跡が、現在は畠山重忠公史跡公園となっているのです。
一方、秩父重綱の子供たちは、入間川(現在の荒川)沿いに進出し、二男重隆は河越に拠点を構え河越氏を名乗り、三男重継が江戸に進出し江戸氏を名乗りました。
したがって、江戸重継は畠山重能の叔父となります、重忠からすると大叔父(祖父の兄弟)ということになります。
畠山重忠は長寛2年(1164)に、畠山の居館で生まれました。
治承4年(1180)、源頼朝が、反平氏の挙兵をした時には、畠山重忠は17歳でした。重忠は父重能が京都で平氏に仕えたいたため、重忠も頼朝討伐の軍に加わります。
しかし、石橋山の戦いで敗れて頼朝は安房に逃れますが、安房・上総・下総の軍勢を傘下に収め隅田川まで攻めてきた際に、頼朝の軍勢に加わりました。
この時に、江戸重長も、頼朝軍に参加したと言います。
その後、畠山重忠は、平氏討伐軍の中心人物として活躍しました。
重忠公園には、畠山重忠が愛馬を背負った銅像があります。
これは、有名な一ノ谷の戦いのひよどり越の際に愛馬三日月を担いで急峻な崖を駆け降りた姿を現したものです。
また、公園には、重忠の墓と言われる五輪塔もあります。
鎌倉幕府が開かれ、幕府の功臣となった重忠は、北条氏にとって脅威となりました。そのため、元久2年に、重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて菅谷館を出て鎌倉に向かいました。そして、武蔵国の二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区)で義時を大将軍とする数万騎と戦って、討ち死にしました。享年42歳でした。
赤印が「畠山重忠公史跡公園」です。

