歌舞伎関係の説明は、ほーりーがしてくれました。
それを参考に、ブログにまとめましたのでごらんください。
まず、今日は、「玄冶店跡」について案内します。
「玄冶店跡」は、人形町交差点の北東脇にあります。地下鉄「人形町」駅のほぼ真上にあたります。
写真の右端が人形町交差点です。写真の左側にあるドラッグストアーの前に、中央区教育委員会の説明板と石碑(左下の写真)がたっています。
玄冶店というのは、3代将軍家光の信頼の厚かった医師岡本玄冶の拝領屋敷があったため、玄冶店と呼ばれるようになったと言います。
ここが舞台となるのが歌舞伎の「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」です。
これは、3代目瀬川如皐(じょこう)が書いたもので、通称「切られ与三(よさ)」と呼ばれています。
主人公の与三郎が、やくざによって30箇所以上の切り傷を負ったことからきています
「与話情浮名横櫛」は、嘉永6年(1853)に中村座で8代目市川団十郎の与三郎、4代目尾上菊五郎(当時梅幸)のお富、3代目関三十郎の赤間源左衛門と和泉屋多左衛門、3代目中村仲蔵(当時鶴蔵)の蝙蝠安(こうもりやす)などの配役により初演されました。
日本橋横山町の大店伊豆屋の若旦那であった「与三郎」と木更津のやくざの妾だった「お富」の変転を描いた「世話物」です。当時人気絶頂だった八代目市川団十郎が与三郎を演じたため、大評判になり、団十郎の与三郎は、当り狂言中の当り役と推賞され、訳なしに見物をうならせたそうです。
しかし、市川団十郎は、翌年安政元年(1854)8月6日に大坂で自殺してしまいました。
32歳という若さでした。
当初の台本は9幕18場となっていたそうですが、あまりにも長すぎて実際に上演されたのは8幕13場だったそうです。
それでも長いので、その後も初演のとおり通し狂言として上演されたことはなく、「木更津浜辺」、「赤間別荘」「源氏店」の三場面だけが上演されるようになったようです。
さらに、たびたび上演されるうちに、「源氏店」だけ、またはその前に「木更津浜辺」をつけるという上演の仕方にかわってきているとのことでした。
右下写真は、ほーりーが、説明板の前で「与話情浮名横櫛」について解説している場面です。最近、ほーりーは諸方面で活躍中のため忙しく欠席がちでしたが、久しぶりに例会に参加してくれました。
さて、一幕目の「木更津浜辺の場」は、木更津で、地元の親分赤間源左衛門の妾お富と与三郎が出会う場面です。二幕目の「赤間別荘の場」は、赤間源左衛門の別荘で「与三郎」と「お富」が同衾する。
そこに源左衛門が戻り二人の現場を押さえられます。
そして、お富は逃げ出し海に飛び込みます。
一方与三郎は捕えられ滅多斬りにされてしまいます。
この二幕目は、最近は上演されるのが少なくなっているそうです。
そして、三幕目が「源氏店の場」の場面です。
この源氏店という名前が玄冶店をもじった名前です。木更津でばらばらになった与三郎とお富が、3年後、鎌倉の源氏店で出会うという設定です。
ここが「しがねえ恋の情(なさけ)が仇(あだ)」の名台詞で知られる非常に有名な場面です。
それでは、その部分を最後に書いておきましょう。 しかし、やっぱり実物を観たほうがいいですよね。
You Tubeで「与話情浮名横櫛」で検索するとヒットすると思います。
与三郎 エエ御新造さんえ、おかみさんえ お富さんえ、イヤサ コレお富、久し振りだなア。
お富 そういうお前は。
与三郎 与三郎だ
お富 エエッ
与三郎 おぬしァ おれを見忘れたか。
お富 エエッ
与三郎 しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、
めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親には勘当うけ、よんどころなく鎌倉の、
谷(こやつ)七郷は喰(くい)詰めても、面へ受けたる看板の、疵がもっけの幸ひに、
切られ与三と異名(いみょう)を取り、押し借り強請(ゆすり)も習おうより、
慣れた時代の源氏店、そのしらばけか黒塀に、格子造りの囲ひもの、
死んだと思ったお富とは、お釈迦さまでも気がつくめえ。
よくもおヌシァ達者でいたなア
安(やす)やい、これじゃァ一分(いちぶ)じゃ けえれめえじゃねえか。
蝙蝠安 なる程、こいつは 一分(いちぶ)じゃァけえられねえわぇ。
なお、最後に、心覚えに、この作品ができる経緯を書いておきます。
与三郎のモデルとなったのは、長唄の4代目芳村伊三郎だと言います。それを乾坤坊良斎が講談に仕上げ、それを初代古今亭志ん生が高座で語っていたものを、3代目瀬川如皐(じょこう)が脚本にしたものだそうです。
赤印が「玄冶店跡」の説明板です。

