この「三光稲荷神社」も、歌舞伎と関係があります。
三光稲荷神社は、御由緒によれば、江戸時代、堺町にあった中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者2代目関三十郎が伏見より勧請したと伝わります。
ある時、中村座で三十郎が演技をしているとき、場内で霊光のような閃きがあり、三十郎がくっきりと照らし出されました。それがあたかも三十郎が光を発しているように見えたため、観客からやんやの喝采を浴び大評判となり、その後、名声を不動のものとしました。
三十郎は、これは日頃から深く信仰していた伏見稲荷大明神の加護によるものと感じ、自身の名の「三」と「光」の字を合わせて「三光稲荷」と称したそうです。
関三十郎は、天明6年(1786)に生まれの江戸時代後期の歌舞伎役者で 享和元年(1801)に3代目中村歌右衛門の門に入り,中村歌助と改名しました。
その後初代関三十郎の養子となって2代目を襲名しました。
小柄ながら姿がよく、地芸・所作にすぐれ,和実を得意としたと言います。堅い芸風で贔屓も多く「名人関三」と称されたとも言われています。
また、同行した忍び駒様の説明では、2代目関三十郎は、踊りの名手で、「藤娘」を初めて舞ったのは、三十郎だったそうです。
また、三光稲荷神社は、猫を見失ったときお願いすれば霊験ありと云われています。
「三光稲荷神社参道」と刻まれた石碑(右写真)は、東京帝国大学教授で文化勲章受章者三島徳七氏が猫が見つかったお礼に昭和29年に建てたものだそうです。
三島徳七氏は、MK鋼の発明者で、KS鋼を発明した東北帝国大学の本多光太郎の競争相手でした。
また特許庁において選定・顕彰された「十大発明家」の一人でもあります。
参道の碑は、道路脇にありますが、そのほか、境内には、社殿の前の箱に招き猫が一杯置いてあります。これも、猫が無事に帰ったお礼に奉納されたものだそうです。
結構な数、置いてありますね。
三光神社のすぐ前の道を「三光新道」といいます。「新道」は「じんみち」と濁って発音します。
この「三光新道」が落語に登場します。
落語に登場する「三光新道」については、神社前の道路中央で木下さんが詳しく説明してくれました。木下さんが説明してくれている道路が現在の「三光新道」です。
しかし、江戸時代は、三光稲荷神社は少し南側にありましたので、江戸時代の三光新道は、一本南側の道路のことを言いました。
この三光新道が、落語の「天災」や6代目三遊亭円生が得意とした落語「百川」という噺に登場します。
「天災」では、心学の先生の紅羅坊名丸(べにらぼうなまる)が住んでいる場所です。
「百川」では、常磐津の師匠の歌女文字(かめもじ)と、外科医の鴨池玄林(かもじげんりん)が住んでいました。
赤印が三光稲荷神社です。 青印が現在の三光新道です。 緑印が江戸時代の三光新道です。

