今年の大河ドラマはおもしろそうですね。昨年は結局大河ドラマは一度もみずに終わりましたが、今年は毎回に熱心にみることとなると思います。
大好きな幕末が時代背景になりますので、気が付いたことを「気ままに」ブログで書いていきたいと思います。
第1回では、長州藩士吉田寅太郎と肥後藩士宮部鼎蔵が会津を訪ねてきて山本邸で一晩過ごす場面がありました。
吉田寅太郎(のちの松陰)が、東北を旅行したのは、嘉永4年(1851)12月14日から嘉永5年4月5日の5か月間(嘉永5年は閏2月があるため)の旅行でした。
吉田松陰は、東北旅行について藩から許可は得ていたものの、過書手形(通行手形)の発行がされていなかたったため、同行者の宮部鼎蔵(みやべていぞう)と江帾(えばた)五郎との出発日の約束を守るため脱藩して東北旅行に出発します。
そして、水戸の向かいます。水戸では、1か月間も滞在し、会沢正志斎に何回も面会し、「今年71、矍鑠たる」会沢から教えを乞うています。
この間、水戸の偕楽園を訪ねていますが、「今は即ち荒廃す。」と書いていて、松陰が訪ねた頃は手入れが行き届いていなかったようです。
1月20日に水戸を発ち、1月29日に会津に入ります。
会津藩では、斉藤弥九郎の息子斉藤新太郎の紹介で藩士井深蔵人をまず訪ねますが、蔵人は亡くなっていたためその子や孫茂松に会います。また、黒河内伝五郎などの宝蔵院流の槍術士にも会いました。
黒河内伝五郎は第3回に山本覚馬と宝蔵院流槍術との決闘に立ち会う場面に出てくるようです。
そして、藩校日新館教授の高津平蔵を訪ね、海防について意見を聞いています。
さらに会津藩の軍事奉行の広川勝助にも会うことができ、会津藩の兵制や軍事教練について質問したようです。
そして、藩校日新館を黒河内伝五郎の案内で2月6日見学しています。日新館を見学した後、その日のうちに会津を出発して越後に向かいました。
吉田松陰は、会津藩は文武の士が多く会津行きは有意義だったと萩への手紙に書いているそうです。
その後、佐渡にわたり、鶴岡・本庄、秋田をめぐり、弘前にいたり、竜飛岬まで行きます。
青森に戻り、盛岡、仙台、米沢を通り、会津若松で一泊した後、日光、足利を経由して江戸にもどっています。まさに東北を一周しています。
吉田松陰は、東北旅行の記録として「東北遊日記」という見聞記を書いています。
会津坂下町にある心清水八幡神社は、会津から越後に向かう途中で参拝していますが、ここには、「東北遊日記」の碑(上写真)が建てられています。
「東北遊日記」からみると、「八重の桜」で描かれたような場面は直接はないように思われます。
しかし、どこかで、山本覚馬と吉田松陰の接点があっても不思議ではないように思いますし、山本覚馬が吉田松陰の噂を聞いたことはあっただろうと推測されます。
いずれにしてもこれからの展開が楽しみな「八重の桜」です。

