十思公園は、東京メトロ日比谷線「小伝馬町」駅から徒歩2分のところにあります。
昨日書いたように、十思公園およびその周辺には、小伝馬町牢屋敷がありました。
より詳しくいうと、十思公園、十思スクエア(旧十思小学校)、大安楽寺、身延山別院、およびその周辺のビルが、牢屋敷でした。合計で約2700坪あります。
十思公園には、「吉田松陰終焉之地」の碑や「石町の時の鐘」などがあります。
既に何回か取り上げていますが、改めて書いていきます。
【十思の由来】
十思というのは、あまり聞きなれない言葉です。
明治になってから、小伝馬町牢屋敷の住所が第一大区第一中学区第十四小区に属したことから、中国の宋の時代の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の中にある「十思之疏(じっしのそ)」の十思(じっし)の音が十四に通じるところから「十思(じっし)小学校」と名づけられました。
十思之疏(じっしのそ)とは、「資治通鑑(しじつがん)」の中で唐の名臣魏徴が、大宗皇帝にさし上げた十ケ条の 天子のわきまえなければならぬ戒めです。
十思学校の東隣にある公園も小学校の名をとって「十思公園」と名付けられました。
【吉田松陰終焉之地の碑】
吉田松陰は、2回、小伝馬町の牢屋敷に入っています。
先日書いたように、一度目が 安政元年(1854)で、 ペリーの2回目の来航の時に、アメリカに密航しようとして、果たせず、下田奉行所に自首した後、この牢屋敷に入っています。
2度目は、安政の大獄で牢に入れられました。
安政の大獄は、特に水戸藩や一橋派を標的にしたものでしたので、吉田松陰は、それらに関係していた訳ではなかったので、遠島ぐらいと思われていましたが、斬首の刑となってしまいました。これは井伊大老の指示だったという説もあります。
安政6年(1859)10月27日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。
吉田松陰終焉之地の碑は、昭和14年に、萩の有志の人が建てたもので、当初は十思小学校の校庭にあったそうですが、GHQの命令で、こちらに移転したと十思小学校の卒業生から聞きました。
この「吉田松陰終焉之地」の碑には、「文部大臣男爵荒木貞夫書」と書かれています。
このことが碑の移転に関係していると思います。
荒木貞夫は、戦前の陸軍大将で皇道派の重鎮であり、2.26事件を起こした昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在でした。
戦後、軍国主義教育を排除するとの考えから、十思小学校の校庭から排除されたのではないかと勝手に考えてみました。
中央の碑には、「身はたとえ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」と松陰の辞世の歌が刻まれています。
家族宛の辞世の歌もありますが、家族宛のものは 「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」です。
【時の鐘】
時の鐘は、江戸時代後期には9つありました。
本所横川町、浅草、上野、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切通、
そして、ここ石町です。
石町の時の鐘が最初の鐘です。
時刻は、江戸の初期は、江戸城内で太鼓を打って知らせていました。しかし、城内ではうるさいので、町方に移させるということになりました。
その時期は、秀忠の時代という説と家光の時代という説とがありますが、十思公園の説明板は家光の時代としています。
この時の鐘は、明暦3年、寛文6年、延宝7年と短期間3度も火災にあい破損しました。現在の鐘は、その後に鋳造されたもので、宝永8(1711年)鋳造であり、一昨年で300年になりました。
元々、この鐘は、本石町にありました。明治4年に時の鐘が廃止され、鐘は近くの屋敷の庭においてあったものを、昭和5年にここに鐘楼を建てて移設したということです。
地元の年配の人は、昭和5年の時の鐘の引っ越しを覚えている人がいるそうです。
【旧十思小学校は歴史的建造物】
旧十思小学校は明治11年に開校しました。現在の建物は、関東大震災後の昭和3年に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造りの校舎として建て替えられたものです。
カーブさせた隅部、アーチ窓、半円形の円柱等の意匠に特徴があるようです。
平成2年3月に廃校後、平成13年からは区の複合施設「十思スクエア」となっています。