その中で、保守的な軍制を続けようとして、軍制改革の提案や洋学所設立を認めようとしない藩重臣に対して、覚馬が「お殿様は、理解しないはずがない」と叫ぶ場面があります。
会津藩は、早い段階から、江戸湾警備に携わっていますし、容保も房州の海防体制の視察も行っていますので、覚馬の指摘は正しいように思います。
今日は、江戸湾警備に携わった会津藩について書きます。
江戸湾の警備が、重要視されるようになったのは、寛政年間です。寛政4年(1792)にロシア使節ラクスマンが、根室に来航し日本の通商を求めましたが、この際に、江戸への回航を要求しました。
これに驚いた老中松平定信が、江戸湾の防衛体制の整備に着手しました。
しかし、松平定信が老中を辞任したことにより、この計画も中座しました。
その後、北方でロシアとの緊張が高まったり、長崎で起きた「フェートン号事件」をきっかけに、文化年間に江戸湾の海防が再び注目されるようになりました。
文化7年(1810)に、会津藩が江戸湾の相州側の警備を命じられました。
対岸の房州側の警備を命じられたのは、白河藩(当時の藩主は江戸湾の警備強化を提案した松平定信)でした。
文化7年11月には、会津藩士の移住が始まりました。遠方への長期出兵だったため家族同伴がゆるされました。
そして文化8年から9年にかけて、観音崎、浦賀平根山、城ケ島に砲台が築かれ、陣屋は観音崎、平根山、三崎におかれました。
警備隊は、番頭上席を責任者として、数名の番頭に指揮された軍隊、武具奉行、普請奉行、砲術家などの技術者、郡奉行を中心に民政にあたる者で編成されていました。
この江戸湾警備は10年もの長期間に及びましたが、文政3年(1820)に、相州の警備は浦賀奉行所が担当することになり、会津藩は江戸湾警備の任を解かれました。
その後、幕府直轄体制、忍藩・川越藩防衛体制の時代を経た後、弘化4年(1847)に「御固四家体制」になりました。
御固四家体制とは、江戸湾の防衛力強化のため、従来の忍藩・川越藩に加えて、会津藩と彦根藩を警備担当に追加するものでした。
ここでも、会津藩が引っ張りだされています。
会津藩は、今回は房州警備を命じられ、彦根藩が相州警備を命じられました。
7月20日に、会津若松を第一隊が出発し、8月15日には、竹岡台場、16日に富津台場を忍藩から引き継いでいます。
この2か所に陣屋が設けられ、派遣された兵力は約1400名でした。
時の会津藩藩主は8代藩主容敬(かたたか)でしたが、同時に警備を命じられた井伊直弼が容敬を「当今英雄之大将、天下の御為無二の忠臣、実に感服致し候」と高く評価しているようです。
容敬の死後、18歳で藩主となった容保は、嘉永6年(1853)4月に房州を視察しました。
ペリーが来航する2か月前のことです。
嘉永6年6月3日にペリーが艦隊を率いて浦賀沖にやって来ましたが、これにより、より江戸に近い場所での防衛体制の必要が認識され、いわゆるお台場が、江川太郎左衛門により構築されることになりました。
嘉永6年8月21日に工事が始まり、一番台場から三番台場が竣工したのは同年7月9日でした。
埋め立てに利用された土砂は、一番台場は御殿山最寄山、二番台場は下高輪松平駿河守元屋敷、三番は高輪泉岳寺山土でした。
嘉永6年11月14日に会津藩は、房州警備の任を解かれ江戸湾の品川第二台場の防備に専任することになりました。そして、それは安政6年まで続きました。
第二台場は、撤去されてしまい現在はありません。最上段の写真は第三台場です。
このように会津藩は、江戸湾警備にも大きな役割を果たしています。
この背景には、藩祖保科正之と将軍家との特別な関係に基づく譜代名門という家柄そして会津藩の強い軍事力と藩士の高い士気に対する幕府の強い期待があったものと思います。
そして、幕府の期待に違わず江戸湾警備の任務を遂行したことが、その後の京都守護職への道につながることになったともいえるような気がします。

