そこで、今日は井伊直弼について、少し書いてみましょう。
「八重の桜」の中で井伊直弼が「突然大老となった」というナレーションがありました。
確かに井伊直弼が大老となったのは、彦根藩にとってもナレーション通り「突然だった」ようです。
井伊直弼の大老就任について彦根藩の「公用秘録」という書物に「今日迄少しも御様子これなく、俄事(にわかごと)の由」と書かれていて「突然のことだった」と書かれています。
こうなったのは
松平春嶽に大老を仰せ付けられるように、(老中首座の堀田睦が)将軍家定に伺ったところ。家定は驚いて「家柄からいって、また人物からいって、彦根(井伊直弼)を差し置いて越前(松平春嶽)に申し付ける筋ではない、掃部頭(井伊直弼)に申し付けるように」といったので、急に決まったようです、
井伊直弼が大老となったのは、老中の松平忠固(ただかた)が、紀伊和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)を次期将軍にしようとする南紀派の新宮城主で紀州藩付家老の水野忠央(ただなか)と気脈を通じて、将軍家定に直弼の起用を進言し成功したからと言われています。
右上写真は彦根城内の金亀児童公園に建つ井伊直弼の銅像です。
井伊直弼が大老となったため、日米修好通商条約が調印され、さらに将軍世継には、一橋慶喜ではなく徳川慶福とすることが決まり、急速に政局が展開したことは「八重の桜」で描かれていました。
「八重の桜」の中では、井伊直弼が、自邸で松平容保にお茶を立てる場面が出てきました。
意外と知られていませんが、井伊直弼はお茶が得意で、一派を作るほどでした。
「埋木舎」と名付けた屋敷で不遇な青年期を過ごしている間、直弼は茶道には熱心に取り組みました。
武家の茶湯である石州流を学び、ついに奥義を窮め、一派をつくりました。
直弼が書いた茶の本として「茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)」や「閑夜茶話」などがあります。
茶道具を自分で作ったりデザインを考案して制作させたりしています。
左写真は、直弼が形を指定して作らせた「六種棗(ろくしゅなつめ)」と呼ばれるものです。
彦根城博物館に展示されていました。
直弼が茶道の極意と言われる「和敬清寂(わけいせいじゃく)」の意を詠んだ和歌に
そよと吹くかぜになびきて すなほなる姿をうつす岸の青柳
という歌もあります。
こうした直弼ですから、茶での接待は心得ていたわけです。