「妖霊星」では、昨日書いたように井伊直弼が松平容保を茶に招く場面がありましたが、「八重の桜」では井伊直弼と松平容保が一緒にいる場面が頻繁に出てきます。これには訳があります。
井伊直弼と会津藩松平家とは特別の仲だったからです。
溜間(たまりのま)というのは、江戸城内の黒書院の中にある部屋の名前です。
江戸城に登城してここに詰める大名を溜間詰(たまりのまづめ)と言いました。
ここに詰められる大名は、ごく少数の家門・譜代に限られました。
彦根藩井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家の三家が常溜(じょうたまり)と呼ばれ歴代藩主が溜間詰に列せられる家柄です。
ですから、元々井伊家と会津藩松平家は親しく交流していたようです。
井伊直弼は、実兄で先代藩主である直亮が片意地であり、江戸城内でのしきたりなど教えてくれなかったそうです。
そこで、直弼が江戸城内のしきたりを教えてもらったのは、同じ溜間詰であった会津藩主松平容敬(かたたか)と高松藩主松平頼胤(よりたね)でした。
そうしたことから、松平容敬と松平頼胤とは親密に交際していました。
二人のうち特に松平容敬に直弼は傾倒していました。
そして、容敬は当然ながら、容敬だけでなく、容敬の子供たちも含めて親密に付き合っていたようです。
直弼の手紙に「我等事、此此(このごろ)は子供二人もうけ申候心持に候。十一歳之男子と十二歳之女子と、俄(にわか)に二人子持に相成申候」と書いています。
この11歳の男子とは容保のことで、12歳の女子とは敏姫のことです。
直弼が、容保と敏姫を自分の子供と同じだと言っているのです。
このくらいですから、井伊直弼と容保との交際も頻繁に行われていたと思われます。
(右上写真は、埋木舎に展示されていた直弼の肖像画です。
また、右下の写真は、直弼が頼胤に出した手紙の覚書で、重要文化財に指定されています。彦根城博物館に展示されていました。)
なお、溜間詰には、常溜のほか飛び溜という家柄がありました。
姫路藩酒井家、伊予松山藩松平家、忍松平家、桑名松平家の四家です。
さらに、老中などを務めたものが優遇されて、一代限り、溜間詰になる場合があります。
これを溜間格といったようです。 安政元年の場合では、佐倉藩堀田家と小浜藩酒井家などが溜間格でした。
安政元年の溜間詰大名の一覧表がありましたので書いておきます。
常溜 近江彦根藩 井伊掃部頭直弼
陸奥会津藩 松平肥後守容保
讃岐高松藩 松平讃岐守頼胤
飛び溜 播磨姫路藩 酒井雅楽頭忠顕
伊予松山藩 松平隠岐守勝善
武蔵忍藩 松平下総守忠国
伊勢桑名藩 松平越中守猷
溜間格 下総佐倉藩 堀田備中守正睦
若狭小浜藩 酒井修理太夫忠義
越後長岡藩 牧野備前守忠雅
三河西尾藩 松平和泉守乗全