品川駅を下車して高輪口を出ると正面に見えるのがSHINAGAWA GOOS(シナガワ グース)です。
以前は「ホテルパシフィック東京」でしたが、現在は、ビジネスホテルの「京急EXイン品川駅前」核テナントとした複合商業施設となっています。
京浜急行電鉄が所有しています。
江戸時代は、ここは薩摩藩の高輪藩邸でした。
ここで、慶応4年3月13日の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城に向けた第1回の話し合いが行われました。
ここでの会談は、西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。しかし、明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れました。
そして迎えた翌14日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
そして、二人の会見の結果、江戸無血開城を取り決めました。
ここは、明治後半以降には、朝香宮家、東久邇宮家の邸宅があったようです。
このうち、朝香宮邸は、昭和8年に白金(東京都庭園美術館)に引っ越しました。
そして、東久邇宮邸を、京浜急行が取得し、「ホテルパシフィック」を開業しました。
お隣にあった竹田宮邸、北白川宮邸の跡地はプリンスホテルが取得して、それぞれ、グランドプリンスホテル高輪、グランドプリンスホテル新高輪となっています。
そのうち、グランドプリンスホテル高輪には、旧竹田宮邸が残されています。
当初は明治天皇の御用邸として計画されていましたが、北白川宮能久(よしひさ)親王の第一王子であった恒久と、明治天皇の第6皇女の常宮昌子(つねのみや・まさこ)との結婚(明治41年)に当たって、敷地とともに下賜されたものです。
恒久は竹田宮家を創設し、ここを新居として暮らし始めました。
しかし、竹田宮恒久王は、わずか37歳でスペイン風邪により亡くなります。
設計者はジョサイア・コンドルの弟子であった片山東熊でした。
竹田宮邸を手がけた時期と、ヴェルサイユ宮殿を模した迎賓館(旧赤坂離宮)の竣工時期とは重なっていて、ともにネオ・バロック様式*です。
戦後、商工大臣公邸、通商産業大臣公邸を経て、昭和28年(1953)からは高輪プリンスホテルの所有となり、昭和47年に村野藤吾によって改修・復元されています。
現JOC会長の竹田恒和氏は、竹田宮恒久王の孫にあたります。
赤印がSHINSGAWAGOOSです。 青印が旧竹田宮邸です。