「留魂録」はすでに死を予感していた松陰が小伝馬町牢屋敷の牢内で10月25日に書きはじめ、翌日書き上げたものです。
松陰は、「留魂録」を書き上げた翌日の安政6年(1859)10月27日に死罪の判決をうけ即日処刑されました。
「留魂録」には、
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
という松陰の辞世の和歌が冒頭にかかれています。
この歌は、また、十思公園にある「松陰先生終焉之地」の碑にも刻まれています
下写真が、その碑です。
「留魂録」は、松陰の遺品の一つとして、遺体を引き取りに出向いた桂小五郎、飯田正伯、手付利助、尾寺新之丞が受取り、萩の高杉晋作、久坂玄随、久保清太郎の三人連名宛てで送られました。
「留魂録」は萩に送り届けられると、密かに門下生たちに回し読みされ、また書き写されもしました。
この「留魂録」を読んだ高杉晋作は、「松陰の弟子としてこの敵は討たずにおかない」と周布政之助に書き送っているそうです。その他の弟子たちも同様だったと思います。
ところが、高杉らの手にわたった「留魂録」は、残念なことにいつの間にか所在不明になってしまいました。
今日「留魂録」の内容が、そっくり伝えられたのは、松陰がもう一つ同様のものを作成していたからです。
これは、軍学者でもあった松陰の周到な作戦でもあったと思われます。
松陰から依頼されて、もう一通の「留魂録」を隠し持っていたのが、松陰が入っていた小伝馬町牢屋敷の牢名主沼崎吉五郎なのです。
時代劇に畳を何枚も重ねた上に牢名主が座っている場面がよく出ています。
その場面は、時代劇の上の虚構だと思う人が多いと思いますが、牢名主は実際にいたのです。
牢内には幕府の認めた次の12人の牢役人がいたのです。
それは、名主、、添役、角役、二番役、三番役、四番役、五番役、本番、本助番、五器口番、詰之番、詰之助番 です。
その他、穴の隠居、隅の隠居などの役人がいました。
牢内役人の筆頭が牢名主です。
吉田松陰が、牢屋敷に入った時の牢名主が沼崎吉五郎でした。 この牢名主の沼崎吉五郎が、吉田松陰の人物を知っていて大事に扱い松陰を牢役人並の待遇としてくれました。
ドラマの最初の場面で、松陰がゆったりした姿で書き物をしていますが、この牢名主の協力なしには、松陰が「留魂録」を書き上げることはできなかったでしょう。
牢名主の沼崎吉五郎は、福島藩士能勢久米次郎の家臣ですが、殺人容疑で小伝馬町の牢屋敷につながれていました。
沼崎吉五郎は、松陰から頼まれた通り「留魂録」を大切に肌身はなさず、獄中にいる間、これを守り抜きました。
沼崎吉五郎はその後、小伝馬町の牢屋敷から三宅島に流され、明治7年にようやく許されて本土に帰りました。
明治9年になって、当時神奈川県権県令だった野村靖(旧名和作、松陰門下生、禁門の変で討死した入江九一の実弟)の前にひょっこりと一人の老人があらわれます。
そして、「私は長州藩の吉田松陰先生の同獄の沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたのです。
そして、「松陰先生は『自分は別に一本を郷里に送るが、無事に着くかどうか危ぶまれる。そこでこれを汝に託す。汝、出獄の日、この遺書を長州人に渡してもらいたい』と述べられた。貴殿が長州出身であると聞いたので、これを進呈します」と付け加えました。
それが、現在残されている「留魂録」です。
現在、萩市の松陰神社の境内にある資料館に展示してあるそうです。
右上写真の講談社学術文庫の古川薫 氏全訳注「留魂録」は、「留魂録」の全文および訳、そして松陰の経歴が書かれていて、わかりやすい本です。
松陰を知りたい人におすすめです。