承教寺は、昨日ご案内した高輪消防署二本榎出張所の前の二本榎通りを北に3分ほど歩いて場所にあります。
承教寺は、、鎌倉時代 の正安元年(1299)芝西久保に創建され、承応2年(1653)現在地に移転しました。
日蓮宗のお寺で江戸時代には池上本門寺の末頭として触頭を勤めていました。
この承教寺では、江戸時代中期の絵師英一蝶が描いた釈迦如来像を拝見させていただきました。
当初は、「釈迦如来像」というので木像かと思いましたが、下見の際に、副住職様に「絵です」と聞かされてびっくりしました。
英一蝶の絵は、本堂の一画の応接室に副住職様が事前に掲げておいてくださいました。
丁寧に副住職様に説明いただきました。
港区教育員会のコメントによれば、
この図は英一蝶の作品のなかで、数少ない仏画であり、いわゆる「清涼寺式釈迦像」の図像に準拠して描かれたものだそうです。
款記から、この画の制作は江戸に帰った宝永6年(1709)以降となり、最晩年に属する時期の作品と考えられています。
一蝶作の仏画としては、三宅島に配流されていた時代に、注文に応じて描いた作品が現在も数点残されいますが、いずれも一蝶流の軽妙な筆致で描かれたものであり、必ずしも本格的な仏画とは言い難いもので、この仏画は大変貴重なものだそうです。
英一蝶は、承応元年(1652)大坂に生まれました。
15歳(一説には8歳)の時、伊勢亀山藩の藩医となった父多賀白庵に従って江戸に移りました。
絵は狩野安信に師事し、また書、俳諧、音曲にも秀で、当時のいわゆる通人でした。
英一蝶は、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と交友を持っていました
また、吉原遊廓通いを好み、客として楽しむ一方で、自ら幇間(いわゆるたいこもち)としても活動していました。
大変すばらしい芸だと伝わっているようです。そのため、豪商の紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門との交流もあったようです。
しかし、元禄11年(1698)に三宅島に遠島となってしまいます。
一般的には、英一蝶が「朝妻舟」の絵をかいて将軍綱吉を風刺したとされています。
朝妻舟は、元々は琵琶湖畔の朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船です。
後に琵琶湖に 船を浮かべて客を取った遊女のことをさすようになりました。
そこに描かれた遊女が、吉の愛妾お伝の方を描いたとされ、綱吉を風刺したものといわれています。
しかし、遠島となった理由については綱吉を風刺したからという説のほか次のような諸説があります。
1、綱吉の実母桂昌院の一族の本庄家などの大名に遊蕩を勧めたため
2、「馬が物言う、牛が物言う」という歌を広めたため
3、「生類憐みの令」に違反して魚釣りをしたため など
英一蝶は、三宅島に12年間いたのち、綱吉死去により家宣が将軍となったことによる宝永6年(1709)の大赦により江戸に戻りました。
赦免の報を聞いた時、蝶が花に戯れる様を見て「一蝶」と号したといいます。
承教寺には、英一蝶のお墓もあります。
このお墓は、明治6年に再建されたもののようです。
英一蝶の御子孫は、現在でも、「英」姓を名乗っているようです。
承教寺には、古い建物が現存しています。
現在の本堂は天明元年(1781)建立されたものです。
延享2年(1745)に大火で類焼しましたが、山門・仁王門・鐘楼は焼失を免れ現存しています。
左上から順に、山門、仁王門、鐘楼、本堂です。
承教寺の山門前には、二本榎の碑と「件(くだん)」があります。
二本榎の碑
ここ二本榎の碑があります。
このあたりは、二本榎と呼ばれた地域ですが、その由来が書かれています。
そのによると、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにあった上行寺門前に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎(にほえのき)」という地名となって続き、榎が枯れた後でも地名だけは残りました。
件(くだん)
承教寺山門前にに狛犬に似て、狛犬ともちがう石造の動物の置物があります。
これは、「件(くだん)」と言います。
「件」の文字通り、半人半牛の姿をした怪物です。
幕末頃の伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされています
生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされています。
この置物は、承教寺の檀家の方が寄進したものだそうです。