承教寺から二本榎通りを北側に5分ほどあるくと右手に東海大学が見えてきます。その向かい側が広岳院です。
広岳院は曹洞宗の寺院です。山号は医王山といいます。寺号は信濃国飯山藩佐久間家初代藩主佐久間安政の嫡男勝宗の法名広岳院殿より名付けられました
勝宗は享年28で父に先立ってなくなりました。そこで勝宗の菩提をともらうために安正政が創建しました。
佐久間安政は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、佐久間氏の一族で、母は柴田勝家の妹であるので、柴田勝家は叔父にあたります。
佐久間盛政の弟で、上野東照宮のお化け燈籠を寄進した佐久間勝之の兄にあたります。
広岳院は赤穂浪士とも関係のあるお寺です。
赤穂浪士一行が、泉岳寺に引き上げてきたときに、泉岳寺では丁重に迎え、粥とお酒がふるまわれたと言います。通常は、お寺は禁酒ですが、特別の日だからということで酒がだされたようです。
これらの対応の指揮をとったのが、泉岳寺住職の長恩和尚、副司(ふうす)の承天則地和尚でした。副司というのは、禅宗のお寺で、食物やお金の調達を担当する職だそうです。
その副司の承天則地和尚がいたお寺が広岳院です。広岳院の6世住職でした。
承天則地和尚はのちに、泉岳寺の住職となり、さらに曹洞宗の総本山である永平寺の住職(禅師)にまでなっています。
広岳院は、幕末には外国公使の宿舎ともなっています。幕末の慶応元年(1865) 4月3日に、 幕府は、プロイセン領事 のフォン・ブラント に、広岳寺を、、江戸滞在中の宿舎とするよう通告しました。
プロイセンの宿舎は翌年には麻布 の春桃院 に変更されたため、広岳院での利用は短期間でした。
プロイセンの宿舎の候補として、この付近の建物が大きく境内が広い寺院が四つあげられました。
高輪の朗惺寺 や承教寺、三田小山の永隆寺などを候補とし、その中から境内の広さや建物の規模な どを考慮して選んだといいます。

現存する広岳院の本堂は、弘化年間の火事の後に再建されたもので、幕末の外国公館として使われていた建物の現存例としては唯一のものです。
この本堂を再建したのは、肥前佐賀藩鍋島家の一族で、北町奉行も務めた鍋島直孝です。
鍋島直孝は、幕末の佐賀藩の名君鍋島閑叟(かんそう)の実兄ですが、旗本鍋島家に養子に入りました。
鍋島直孝はあさがの研究をした殿様としても有名です。
以前書いた 「変化朝顔 (朝顔③ 江戸の花)」 をご覧ください。
鍋島直孝のお墓が広岳院にあり、ご住職のご配慮によってお参りさせていただきました。
旗本鍋島家のほか、この広岳院には、肥前鹿島藩鍋島家、高家畠山家の墓もありますが、開基の佐久間家の墓はなくなっていると御住職がおっしゃっていました。
ご住職さんありがとうございました。
赤印が広岳院です。

