浅野長直は浅野長重の長男として慶長15年に生まれました。
母は三河吉田藩主松平家清の娘で家康の養女となって長重に嫁いでいるので、長直は家康の孫ということになります。
幼名は又一郎といいました。
寛永9年(1632)10月、父の跡を継いで笠間藩主となりました。
寛永11年(1634)には幕府より駿府城城代に任じられ、同13年(1636)には江戸城西の丸の普請を手伝いました。

そして、浅野長直が転封を命じられ赤穂藩主となりました。
以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となりました。
浅野長直が赤穂に残したものが二つあります。
まず、一つ目が赤穂城の築城です。
慶安2年(1649)から赤穂城築城工事を開始し、寛文元年(1661)に完成しました。完成までまる12年かけています。

それにも拘わらず、築城が認められたということは非常に珍しいことです。
磯田道史氏(静岡文化芸術大学文化政策学部准教授)は著書「殿様の通信簿」の中で、岡山の池田光政を封じこめるために家光が築城を命じたのではないかと書いています。
築城は、家老で軍学師範の近藤正純が設計しました。
この築城には、山鹿素行が関わったとも言われていて、二之丸門虎口の縄張は、山鹿素行の手が加えられたと伝えられてます。
なお、浅野長直は、山鹿素行の門人でもありますが、山鹿素行は承応元年(1652)より万治3年(1660)まで浅野長直に仕えました。
また山鹿素行は、寛文5年(1665)に『聖教要録』を書いたことにより、翌年幕府によって赤穂に流され、延宝3年(1675)に許されるまで赤穂で暮らしていました。
二つ目が、製塩事業の推進です。
長直は半農半漁の寒村に製塩業を奨励しました。その結果、赤穂の塩は全国に有名になり、その製塩技法は仙台・能登・対馬・鹿児島へも伝えられたといいます。
寛文11年(1671)に長男長友に家督を譲り、翌年7月24日に死去しました。享年63歳でした。