池田屋事件は、幕末の元治元年(1864)6月5日年に、三条小橋脇の池田屋にいた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃しました。
池田屋事件は、6月5日に捕らえらた古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)の自白により尊王攘夷派の浪士による「御所に火を放ち、一橋慶喜や松平容保を暗殺し、孝明天皇を長州にお連れする」という容易ならざる計画が実行されようとしていることがわかりました。
新撰組はすぐに会津藩に報告しました。会津藩では、緊急の重役による会議を開きました。
打ち捨てておけば役目がはたせないし、取り押さえれば長州および尊攘派から恨みをかうことになるがこの機会をのがす訳にはいかないということになり、容保も同意しました。
そこで、慶喜、所司代に相談すると、それぞれ同意しました。
新撰組には祇園会所へ集合を命じました。
当日の態勢は、次のような大掛かりの態勢が計画されました。
会津藩150人、彦根藩150人、所司代100人、京都町奉行70人、淀藩100人
そして、新撰組は、四条辺りから北上し、会津藩は二条辺りから南下し、一か所に落ち合うという計画でした。
しかし、会津藩は、慶喜や所司代との打ち合わせに時間がかかり出動できたのが夜遅くなってしまいました。
そのため、新撰組は、指示通り5ツ時に集合しましたが、会津藩は、予定時刻に集まりませんでしたので、新撰組が単独で市中探査を開始することとなりました。
新撰組は、近藤勇が隊員9名を率いた組と土方歳三を隊長とする組とに分けて、探索を開始しました。そして、近藤勇が、三条の池田屋に尊攘浪士が集合していることを察知し、踏み込んだのでした。
この戦いで、新撰組は、多くの尊攘派浪士を殺害しました。
肥後の宮部鼎蔵、土佐の石川潤次郎、伊予松山の福岡祐次郎は池田屋内で殺害されました。また、長州の吉田稔麿は木屋町通の加賀藩邸前で討死、土佐の望月亀弥太は河原町通り二条の角倉邸前で自害、北添佶麿は翌日の残党狩りの際に殺害されました。
さらに、肥後の松田重助、林田藩の大高又次郎、長州の杉山松助、長州の広岡浪秀も殺害されました。
池田屋事件で殺害された人物は、尊攘派の大物・逸材が大勢いました。
そのため、この事件に長州藩は激高し、京都に進軍することとなり、禁門の変を引き起こすこととなります。
そして、会津藩、池田事件をきっかけに、長州藩と完全に敵対関係になりました。
池田屋事件については、以前、詳しく書いていますので、そちらもご覧ください。
池田屋事件①
池田屋事件②
池田屋事件③
池田屋事件④

