善福寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は麻布山(あざぶさん)と言います。

当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉時代になって越後国に流されていた親鸞上人が善福寺を訪れた際に、浄土真宗に改宗したとされます。
善福寺は、安政6年(1859)に善福寺はアメリカ合衆国公使館となり、明治8年12月まで公使館として利用されました。
そこで、参堂入り口には 「最初のアメリカ公使宿館跡」の碑が建てられています。
善福寺については、以前、書いています(「善福寺 【幕末の公使館① 江戸検定今年のお題 幕末】」)が、福沢諭吉のお墓については触れていませんので、今回は、福沢諭吉のお墓についてご案内します。
右写真は、善福寺の勅使門の写真です。後方に見える近代的なマンションは「元麻布ヒルズ」で、善福寺の隣地に建っています。
福沢諭吉のお墓は、本堂向かって右手の墓域の中の開山堂の手前にあります。
他のお墓より少し広めのお墓です。

それは、生前に福沢諭吉が、そこに埋葬するよう決めていたからだそうです。
しかし、昭和52年、福沢家の意向で善福寺に改葬されたそうです。
改葬された理由は確かなことはわかりませんが、福沢諭吉の葬儀が善福寺で行われていたという事情もあるように思います。
福沢諭吉は明治34年(1901)2月3日になくなりました。
諭吉の葬儀は2月8日に、慶応義塾をあげて行われ、当日は三田の自宅から善福寺まで「2キロ足らずの道を、1万5千人の会葬者が徒歩して棺に従った」(小泉信三『福沢諭吉』)そうです。
なお、お墓は福澤諭吉夫妻のもので、福澤家の墓地は多摩墓地にあるそうです、
明治34年2月8日付けの「東京朝日新聞」には次のうような記事が載ったそうです。
「◎福沢諭吉氏の葬儀・・・・・福沢諭吉氏の葬儀は本日午後一時三田出棺麻布十番善福寺において式を行える上、白金大崎本願寺(瑞聖寺の隣)に埋葬せらるべし。行列は慶応義塾普通部生徒、幼稚舎生徒、商業学校生徒、大学部生徒、次に樒三対、それより導師、香炉、位牌(大観院独立自尊居士)銘旗、次に柩にて棺側は慶応義塾評議員一同なり。次に喪主、親戚、柩台にして塾員及び同窓者も皆徒歩して之に随い、それより会葬者の順序にて一万人以上に達すべく混雑を防ぐため車夫馬丁の心附はせずという。」