文久3年6月5日の池田屋事件以後の長州進発を踏まえて、7月 日の佐久間象山暗殺事件から7月17日の「蛤御門の変」までの出来事でした。
先週から松平容保は病気になっていて、綾野剛も弱々しく演じていましたが、今週も弱々しい容保でした。
容保は元々蒲柳の質でした。京都守護職の就任要請を受けた時も頑強に固辞しましたが、それは、健康でないことも要因の一つでした。
それが、守護職となって京都に赴任して、激しい京都の政治状況の中で、激務をこなしてきました。当然、心労も重なります。そうしたことから、体調を壊してしまうのも当然といえましょう。
文久4年正月以降は、容保は体調はひどく悪かったようです。
山川浩が書いた「京都守護職始末」にも
「わが公の病は甚(はなは)だ重く、食物が咽喉を通らないことが旬余日もつづき、衰弱が甚だしく、主治の医員も手を空しくこまぬいて、術の施しようがなかた。」
と書かれています。
そのため、京都守護職の辞任を申し出ます。
しかし、容保に対する孝明天皇の信任が厚く、軍事力をもった会津藩が、京都を去ってしまいますと京都における幕府の力が弱まることになります。
そのため、容保の辞任は許されませんでした。
容保の病気が何だったとのだろうという疑問が起きます。
容保の病状は、側に仕える医師の土屋一庵、東条玄硯から、定期的に江戸と会津に報告されています。
その記録に基づき、星亮一氏が医師に病名を尋ねた結果が、中公新書「幕末の会津藩」(星亮一著)に書かれています。それによると
「これらの症状は現代の医学でいえばどんな病気に該当するのか。以前、私は複数の内科医に聞いてみたことがあった。それを総合すると胆道系の病気、胆石症、胆嚢炎にほぼ間違いということだった」そうです。
また、「しばしば風邪をひいているところから胸部疾患、軽い結核も考えられるという医師もいた」そうです。
こうした病気で体調が不十分の中で、容保は京都守護職を務め、蛤御門の変も迎えることになります。
右上段の写真は、京都国際ホテルに移築されている「京都守護職屋敷正門」です。

