今回は、忠臣蔵にゆかりの地を訪ねましたので、六本木一丁目駅から南部坂を案内しました。
南部坂は、六本木通りの一本裏側にあるため六本木通りから入るには見落としがちです。
そんな時に目印になるのが久國神社です。
【久國神社】
久國神社は、港七福神の一つで布袋様をお祀りしています。元は千代田村紅葉(現・皇居内)に鎮座していたといいます。
長禄3年(1457)太田道潅の江戸築城に際し、寛正6年(1465)に溜池に遷座しました。
道灌が鎌倉時代の刀工粟田口久国(あわたぐち ひさくに)作の刀を寄進したところから久国稲荷と称するようになったといいます。
寛保元年(1741)に現在地に遷座しました。そして、昭和2年社号を久国神社と改めました。
【南部坂】
久国神社の前の道を東に向かうと左手に坂が見えてきます。
南部坂は、南に下る坂です。
これが南部坂です。坂下には、道標があります。
右写真の右下に道標が見えます。
南部家の屋敷のそばにあったことから、この坂が南部坂と呼ばれるようになったと言われています。
東京には江戸時代からの南部坂がふたつあります。一つは、赤坂の南部坂で、もうひとつは有栖川宮記念公園の脇にある南部坂です。
どちらの南部坂も坂のそばに南部家の屋敷があったため、その名前が付けられました。
ただし、赤坂の南部坂のほうが麻布の南部坂よりも古い歴史があります。
というのは、江戸時代の初めに、南部藩の屋敷は赤坂にありました。
そして、現在の有栖川宮記念公園には、浅野家の下屋敷がありました。
それが、明暦2年(1656)に南部家の中屋敷と浅野家の下屋敷の交換が行われました。
そして、南部家の中屋敷が現在の有栖川宮記念公園に移転した後は、その脇の坂も南部坂とよばれるようになりました。
南部坂と言えば、忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面で有名です。
現在、赤坂氷川神社がある場所は、備後三次藩浅野家の屋敷がありました。三次藩浅野家は浅野内匠頭の夫人瑤泉院の実家です。
赤穂事件で浅野家がとりつぶされた後、瑤泉院は、実家で暮らしていました。
そこで、大石内蔵助が討ち入り前にここを訪れて別れを告げるという場面です。
これは、講談や浪曲でも有名ですが、明治4年に河竹黙阿弥が「四十七刻忠箭計 しじゅうしちこくちゅうやどけい」」を書いて歌舞伎にも取り入れられています
南部坂の東側が溜池まで、江戸時代には福岡藩黒田家の中屋敷でした。
勝海舟の蘭学の先生であった永井青崖が、このお屋敷で蘭学を教えていました。
左上写真は、南部坂の上から下を見たものですが、左手が黒田家の屋敷でした
赤印が南部坂です。 青印が久國神社です。

