南部坂を登りきって北に向かうと旧氷川小学校が見えてきます。
氷川小学校は、平成5年に廃校となり、現在は特別養護老人ホーム「サン・サン赤坂」となっています。
この旧氷川小学校の敷地は、中央義士会によると、浅野家の下屋敷とされていました。
そこで、 元禄6年の地図をみましたら、「アサノ内匠」と書かれていますので、確かに浅野内匠頭長矩の屋敷だったようです。ここに江戸時代初めは、南部家の屋敷があり、明暦2年の相対替えにより、浅野家の屋敷となったという経緯があるようです。
ここに江戸時代の初めは南部家の屋敷があったため、昨日ご案内した「南部坂」の名前の由来となっています。
そして、元禄時代には、赤穂藩浅野家は長矩の代になっているわけです。
この屋敷の主人が何代変わったかわかりませんが、明治になってからは、ここが勝海舟の屋敷となりました。
旧氷川小学校の敷地の南東には、「勝安芳邸跡」の石碑および説明板が建っています。
それが 右の写真です。
明治元年に、静岡に移住していた勝海舟は、明治5年に東京に戻ってきました。
その当時、ここには大身旗本の柴田七九郎の御屋敷がありました。
そのお屋敷は約2500坪ありましたが、それを5百両で勝海舟が購入しました。
そして、明治32年になくなるまで、ここに住んでいました。
勝海舟は赤坂の地が気に入っていたらしく、24才の新婚の時から76歳で死ぬまで、基本的に赤坂に住んでいました。
海舟は、若い頃蘭学を習うために、当時、福岡藩中屋敷に住んでいた永井青崖の所に通っていました。そのため、勝海舟は、赤坂について土地勘があったのだと思います。
そのため、23才で結婚した翌年に、赤坂に引越しました。
最初は、赤坂田町中通(現在のみすじ通りあたり)に住んでいました。
その後、安政6年(1859)36歳のから明治元年(1868)の45歳まで約10年間は、赤坂氷川神社の下に住んでいました。
そして、徳川慶喜とともに静岡に移住した後、明治5年に再び東京に戻った際に、ここに住みました。
海舟は明治5年に50歳で上京し、明治32年に満76歳で亡くなるまでここに住み、海軍卿、伯爵、枢密顧問官として華やかな生活を送る傍ら氷川清話などを書いてくらしました。
勝海舟が亡くなったが後に屋敷跡は、昭和2年に東京市により氷川小学校用地として購入され、平成5年春まで氷川小学校として使われていました。
石碑の脇に大きな銀杏(左上写真)がありますが、この銀杏は、勝海舟邸の中心部にあったものを移植したものだそうです。
また、建物の中には、勝海舟邸を発掘調査した際に出土した陶器類が展示されています。
また、勝海舟の略歴も掲示されています。
赤印が、「勝安房守邸跡(旧氷川小学校)」です。
青印は、昨日紹介した「南部坂」です。

