吉良氏の歴史の2回目ですが、元々足利氏の支流であった吉良氏が徳川家と深い関係をもつようになるのは、吉良上野介義央の4代前の吉良義安からです。
そこで、今日は、吉良義安(上野介の高祖父)、義定(曽祖父)、義弥(よしみつ 祖父)、義冬(父)の4代の歴史について書きます。
【吉良義安】
徳川家(松平家)と吉良家との関係は、家康の祖父松平清康の時代に始まりました。
清康の妹が、東条吉良家の吉良持広の妻となりました。この二人の間に子ができなかったため、再び清康の娘を養女にもらいました。これで、松平家と吉良家は重縁の関係となりました。そして、養女の婿としたのが、吉良義安でした。
吉良義安は、西条吉良家の吉良義堯(よしたか)の次男でした。
その後、義安の兄で西条吉良家を継いでいた義郷がなくなったため、義安が西条吉良家も継ぐこととなりました。長いこと西条吉良と東条吉良に分かれていた吉良家がここに統一されました。
その後、今川義元から織田方への内応の疑いがかけられた吉良義安は、駿府で人質として暮らすこことなりました。
当時、家康も今川氏の人質として駿府で暮らしていたため、親しくなったといわれています。
義安の後、東条城には、義安の弟の義昭が入りました。
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したため、家康は三河に戻りましたが、吉良義昭は今川方であったため、義昭を攻めました。
降伏した義昭は、一時期蟄居した後、永禄6年に起きた三河一向一揆の大将に担ぎ出され、家康に背きましたが敗北し、近江に逃れました。
なお、吉良義安は、駿河でなくなったようです。
右写真は、愛知県西尾市(旧吉良町)にある吉良家の菩提寺華蔵寺の御影堂にある義安の木像です。
昨年、華蔵寺にお邪魔した際に特にお許しをえて撮影させていただきました。
【吉良義定】
義定は、義安の子供として、永禄7年(1564)に生まれました。
母は松平清康の娘です。 つまり、家康の叔母にあたります。ですから、義定は家康の従兄弟になります。天正7年(1579)に家康が鷹狩で吉良にきて、叔母俊継尼とその子吉良義定に面会しました。
そして、叔母俊継尼の依頼を受けて、家康は義定の仕官を承諾し、義定に吉良の名跡を継がせ、家康に仕えることになりました。
義定は、妻として今川氏真の娘を貰いましたが、婚礼の時期ははっきりしていません。
義定は、関ヶ原の戦いに嫡男の吉良義弥とともに従軍し、戦いの後、三河国吉良に3000石の加増を受け、3200石の所領を与えられました。
これにより、義定が吉良家中興の祖となりました。
義定は、これを機に、父義安の供養のため、吉良に華蔵寺を建立しています。
そして、寛永4年(1627)死去しました。享年64歳でした。
右写真は、華蔵寺の御影堂にある義定の木像です。
【吉良義弥(きら よしみつ)】
吉良義弥は、天正18年に吉良の岡山の陣屋で生まれました。
慶長2年(1597)、徳川秀忠に御目見しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、父義定とともに従軍しました。
この時、秀忠が少年時に身に着けた具足を下賜され、これを着用して供奉したと言われています。
戦いの後に三河国吉良など3200石を与えられました。
慶長13年(1608)に従五位下侍従・左兵衛督に叙任、元和9年(1623)に従四位下左少将に昇進しました。
この年に、義弥は大沢基宿とともに「高家」に就任したといいます。
寛永20年(1643)京都においてなくなりました。享年58歳でした。
右写真は、中野区上高田にある吉良家の菩提寺万昌院功雲寺の義定・義弥・義冬・義央4代のお墓です。
【吉良義冬】
吉良義冬は、慶長12年(1607)に江戸呉服橋邸で生まれました。
元和3年(1617)、11歳で将軍徳川秀忠に拝謁しました。寛永3年(1626)従五位下侍従に叙任し、若狭守となりました。歴代の中で、若狭守を名のったのは義冬だけです。
寛永20年(1634)37歳で家督を継ぎました。
正保2年(1645)、徳川家綱元服の謝使として京都へ赴むきました。その際に従四位下に昇進しました。
明暦2年(1656)の後西天皇の即位に際して、その賀使として松平右京太夫頼重が任命され、義冬が副使として随行しました。
寛文8年(1668)になくなりました。享年62歳でした
右写真は、愛知県西尾市(旧吉良町)にある吉良家の菩提寺華蔵寺の義安・義定・義弥・義冬・義央・義周の6代のお墓です。

