今日は、赤坂氷川神社についてご案内します。
赤坂氷川神社のある場所は、元禄の頃は、現在の広島県の三次にあった備後国三次藩浅野家の屋敷がありました。
三次藩浅野家は内匠頭の正室瑤泉院の実家でした。三次藩は広島藩の支藩です。初代藩主は浅野長治といいました.
浅野長治は、広島藩初代藩主浅野長晟(浅野長政の次男)の長子として生まれましたが、母が側室であったため、正室から生まれた光晟が、浅野家宗家の家督を継ぎました。
そして、長兄の長治が、三次藩を立藩しました。
瑤泉院は長治の娘で、落飾前は「阿久里(あぐり)」と言っていました。
阿久里は、10歳で内匠頭結婚しました。
なお、内匠頭と阿久里は従兄同志と書いている本も見ますが、阿久里の母親は、内匠頭神長矩のおじいさん浅野長直の娘ですので、 阿久里は、内匠頭長矩から見ると、おじいさんの妹の娘です。従って、正しくは 「いとこ」ではなく「いとこおば」です。
瑤泉院は、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
そのため、大石内蔵助が事件前に瑤泉院を訪ねるとすると赤坂の下屋敷を訪ねることになるため、「南部坂」が舞台として登場することになります。
南部坂は赤坂氷川神社から歩いて5分ほどの所にあります。
三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 → 浅野長澄→ 浅野長経 → 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代寔と2代続いて子供がなくて三次藩は断絶しました。そして、屋敷も収公されていたようです。
その後、8代将軍吉宗の時に、この用地を氷川神社としました。
赤坂氷川神社は、平安時代中期の天暦5年(951)に赤坂一ツ木台地(俗称…古呂故(ころこ)ヶ岡)に祀られました。
赤坂氷川神社が紀州徳川家の赤坂の中屋敷の産土神であったことから、徳川吉宗が、老中水野忠之に命じ、社殿を造営し、享保15年(1730)一ツ木台地から現在地へ移りました。
氷川神社の本殿は享保15年(1730)建立されたもので、現在、東京都の重要文化財となっています。
赤坂氷川神社は、東京十社の一つです。
すでに十社巡りの中で書いているので、 「氷川神社 (十社巡り4)」 もあわせてご覧ください。
赤印が赤坂氷川神社です。

