吉良上野介義央は、忠臣蔵の影響から、「悪人」のイメージが強くあります。
本当に「悪人」だったのかどうなのか、今日は吉良上野介義央の人物評について書いてみます。
綱勝毒殺説はウソ
吉良上野介についての悪行が噂されています。
まず米沢藩主綱勝が寛文4年(1664)閏5月に急死しました。
この件に関して、吉良上野介による毒殺説があります。これは綱勝の発病が妹の嫁ぎ先の吉良家を訪れて、吉良義冬・義央親子から饗応を受けた後、その帰り道に腹痛を起こしました。
そして、7日間病状が改善せず、7日についになくなりました。
これが、吉良上野介が毒薬をもったからだという説です。
三田村 鳶魚も「元禄快挙別録」に書いているそうですが、後に訂正したそうです。
しかし、綱勝の病状については当時の上杉家江戸家老千坂高治の「千坂兵部日記」(「削封日記 天」)]に詳しく記されていて、それを詳細に見ると毒殺ではないというが有力説です。
佐々木杜太郎氏著「吉良上野介の正体」には、「赤痢体の病状であったようである」と書かれています。
「黄金堤(こがねづつみ)」
吉良上野介の領地の吉良では、名君とされています。
吉良上野介の業績として上げられているのが「黄金堤」の築造と「富好新田」の開発です。吉良荘一帯は矢作川下流の肥沃な平野ですが,広田川、須美川、安藤川が流れ、たびたび洪水が起こり領民は苦しんでいました。
そこで吉良上野介は、隣の西尾藩主と直接話し合い,一昼夜で築くことを条件に堤を作ることの許可を西尾藩から得て、合流点に長さ180m、高さ4メートルの堤防を築きました。
それ以後は、洪水もなくなり、水田も黄金の稲穂を実らせるようになりました。
そのため、「黄金堤(こがねづつみ)」」と呼ばれるようになりました。この堤は別名「一夜堤」とも言われ,現在も残っています。
「富好新田」
貞享3年(1686)ころから妻富子が重い眼病にかかりました。
ある夜のこと、富子の夢に、身延山の七面天女を祈れば快癒するとのお告げがありました。
富子は,身延山に詣で願を掛けたところ不思議と快癒しました。
この時、富子は病気平癒の際には、七面天女を一生の守り本尊とすることと領地に新田を開いて供養すると誓っていました。
吉良上野介は、富子の誓いを守るため、新田工事に取り組みました。
こうして矢崎川河口約90町歩の海を干拓して新田を開きました。
この開いた新田は富好新田(とみよししんでん)と呼ばれるようになりました。「富子が好む新田」という意味だと思います。
赤馬に乗って巡回吉良家ゆかりの華蔵寺、花岳寺へと続く遊歩道には、赤馬に乗った吉良上野介の像が建てられています。
吉良上野介は、赤馬(駄馬)に乗って、領内を巡視したと伝えられており、その言い伝えに基づく像です。
また、郷土玩具に「赤馬」もあります。
「卜一」号をもつ茶人
吉良上野介は、また茶人でもありました。
茶人としての義央は、「卜一」(ぼくいち)という茶の号をもっていて、卜一流を興したほどでした。なお「卜一」というのは「上野介の上の字を二分したものです。
吉良上野介は、千利休の孫千宗旦の晩年の弟子の一人であり、宗旦四天王の一人で、『茶道便蒙抄(さどうべんもうしょう)』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていました。山田宗偏は、千宗旦の弟子で宗偏流を興しました。
宗旦の推挙によって三州吉田城主小笠原忠知の茶頭となり、晩年江戸にくだり、茶室を本所2丁目に構え多くの弟子に教授しました。
赤穂浪士の大高源吾が、宗偏に弟子入りし、12月14日の吉良上野介の在宅を確認したというのは有名なな話です。ただし、これも本当の話が作り話か確認の必要があるかもしれません。
吉良の華蔵寺には、吉良上野介が使用したと伝わっている茶釜があります。
吉良流礼法
礼法というと小笠原流が大変有名ですが、吉良流礼法もあります。
高家肝煎たる吉良家は、職務の必要上から、長い伝統を持つ朝廷の礼法、鎌倉・室町時代の武家の礼法など、有職古事を踏まえた、江戸時代に即した礼法を打ち立てました。
これが吉良流礼法です。
吉良流礼法は、義央の父義冬が興したと言います。
高家肝煎として、江戸城内での儀式を取り仕切っていたことから、吉良流礼法は多くの大名家で取り入れられたと思われますが、尾張藩徳川家と広島藩浅野家が有名です。
この両家には、多くの吉良流礼法についての資料が残されているそうです。

