まず昨日の「八重の桜」で一寸びっくりしたことがありました。
昨日は、薩長同盟も取り上げられていましたが、薩長同盟の立役者である坂本龍馬が「土佐藩脱藩浪士」とだけ紹介されていたのにはちょっとびっくりしました。
薩長同盟については、以前に 薩長同盟① と 薩長同盟② で書いていますので、より詳しく知りたい方はご覧ください。
さて、「2次長州征伐」についてですが、長州征伐にあたって、 幕府は、当初、次の5方面からの長州征伐を計画していました。
①広島方面から攻める芸州口、②石見(現在の島根県)から攻める石州口、③瀬戸内海の周防大島から攻める大島口、④小倉方面から攻める小倉口、⑤長州藩の本拠の萩を直接攻める萩口です。
しかし、萩口を担当することとなっていた薩摩藩が出兵を拒否したので、4方面からの攻撃となりました。
そのため、第2次長州征伐を長州側では「四境戦争」とも呼びます。
大島口の戦い
4方面の中で、最初に戦端がきられたのは大島口でした。
6月8日、幕府の「富士山丸」が砲撃を行ったあと松山藩兵が上陸しました。
大島口は、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩が担当しました。
長州藩は戦力分散を避けるため大島は捨てる作戦でした。
しかし、占領された大島の惨状を見て、奪還論が強まり大島奪還に方針転換し、小倉口を担当する戦力の一部が大島奪還を目指しました。
高杉晋作は、「丙寅丸」によるや夜間奇襲戦法により幕府海軍を敗走させました。
その後、芸州口を担当していた世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが上陸し幕府軍を大島から撃退しました。
芸州口の戦い
幕府の本営は広島に置かれ幕府軍の主力が配置されました。
これに対して長州藩も精鋭を芸州口に配置しました。
6月14日の戦闘は、広島から周防に通じる西国街道を主戦場として行われました。
幕府の先鋒の彦根藩は、西国街道を進み安芸・周防国境を流れる小瀬川を渡ろうとしたところ長州藩の銃撃を受けました。
井伊隊は長州藩の攻撃に対して大敗し、逃げた後には多数の具足が捨てられていたと言います。
井伊隊が配送すると大竹に布陣していた高田藩榊原家の藩兵も一戦も交えず逃げ出しました。
四天王と言われた井伊直政と榊原康政を藩祖とする彦根藩と高田藩はみじめ姿をさらすこことになりました。
両藩が敗走した後、幕府軍は紀州藩の付家老である水野氏が藩主の新宮藩と陸軍奉行竹中重固(しげかた)が指揮する幕府軍陸軍の歩兵部隊が出撃しました。
この幕府軍部隊と長州藩兵は四十八坂で激突しました。この部隊は頑強に戦い、長州藩の攻撃を撃退しました。その後の長州藩の攻撃も排除し、芸州口は膠着状態となりました。
石州口の戦い
石州口から攻めた幕府軍は、福山藩、浜田藩、津和野藩でした。
長州藩は大村益次郎が指揮を執りましたが、積極的に攻勢に出ました。
津和野藩は、隣藩であり長い誼があることから、攻めるどころか、長州藩が藩領を通過するのを黙認しました。
長州藩は、6月17日に浜田藩領の益田を攻めました。
益田を守備していたのは福山藩でしたが、長州藩の新式銃ミニエー銃の前に抗することができず、2日間で長州藩に占領されました。
益田占領のあと長州藩は浜田を攻めました。
7月18日、浜田藩は浜田城に火をつけて撤退をしました。
小倉口の戦い
小倉口では、幕府軍は老中小笠原長行(ながみち)が総督として指揮しました。長州藩は、高杉晋作が奇兵隊を指揮して戦いました。
6月17日に長州藩が田野浦上陸し緒戦に勝利し、7月2日には大里(だいり)の戦いでは、小倉藩が単独抗戦を強いられる状態で、小倉藩は敗北しました。
7月下旬の赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川家が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せました。しかし肥後藩が単独で戦うことを強いられ、怒った肥後藩は撤兵してしまいました。
そして、7月30日には小笠原長行自身も戦線を離脱した。
これは、将軍家茂が7月20日に亡くなったとの報が届いていためです。
こうして、小倉藩は、一藩で戦う羽目となり、小倉城に火をつけて撤退するということとなり小倉城は焼失しました。
右上写真は、現在の小倉城です。
この小倉口の戦いでの敗北により幕府軍の敗北が決定的となりました。
この敗退の方が大坂に届いたため、昨日の「八重の桜」でも描かれていたように、当初勇ましかった慶喜が急遽に休戦に方針を変更したのでした。

