そこで今日は孝明天皇の死について書いてみたいと思います。
孝明天皇は、慶応2年(1866)12月11日に、宮中内侍所の臨時御神楽の儀式に出席し、翌日より発熱、まもなく疱瘡と診断されました。
そして、25日夜半、激しい嘔吐や下痢し、ついに亡くなりました。
天皇の急死については、痘瘡・病気説がある一方であまりにも急になくなったため毒殺説が当時からささやかれました。
アーネストサトーの「一外交官の見た明治維新」では、当時宮中から毒殺のうわさが流れていたことが書かれているそうです。
戦後になって、昭和50年に孝明天皇の御典医の曾孫の伊良子光孝氏が曾祖父光順(みつおさ)の日記とメモをもとに毒殺説を主張したことから、学会において、毒殺説が有力となりました。
毒殺説の考えにたって書かれた主なものとしては、次の資料があるようです。
石井孝(元東北大学教授)「孝明天皇病死説批判」(『近代史を視る眼』)
明田鉄男(滋賀女子短期大学教授)「孝明天皇怪死事件」(『人物探訪日本の歴史 20 日本史の謎』)
田中彰(元北海道大学名誉教授)「孝明天皇毒殺事件」「天皇毒殺」(『明治維新の敗者と勝者』)
かなり多くの人が孝明天皇毒殺説をとっていることがわかります。
しかし、名城大学名誉教授の原口清氏は、「孝明天皇は毒殺されたのか」(藤原彰ほか編「日本近代の虚像と実像」)で、毒殺説を批判し痘瘡説を主張しました。
天皇の病状が好転したというのは明確な根拠がなく、死亡時の紫斑点や出血から判断した、孝明天皇は出血性疱瘡で亡くなったと主張しました。
これに対して、石井孝氏は毒殺説をとる立場から「原口清氏の孝明天皇病死説に反駁する」で反論しています。しかし、現在では、論争は中断されているようです。
毒殺説の背景には、孝明天皇は、佐幕主義者であったので、倒幕をめざす勢力にとっては、孝明天皇自体の存在そのものが大きな障害だったという政治情勢が考慮されていて、そのため、孝明天皇を除くという陰謀が、討幕派の中でめぐらされたという論理構成となっているようです。
孝明天皇がなくなり、おさない明治天皇が即位したことにより、倒幕派の主張が通りやすくなり、徳川幕府は追い詰められていきます。
そして、会津藩も同じ運命をたどることになります。