28日の日曜日は、茨城県の古河市に所用がありました。そして時間がちょっとありましたので、「古河歴史博物館」と「鷹見泉石記念館」に寄りました。そこで、今日は「鷹見泉石記念館」についてご案内します。
鷹見泉石といっても、その名前を聞いてピンとくる人は少ないと思いますが、インターネットで「鷹見泉石」で検索して、出てくる肖像画を見てください。
その肖像画は見たことがあると思われる方が多いのではないでしょうか。(本当は、肖像画の画像を入れるのがいいのですが、著作権上問題がありそうなので掲載をやめました。ネットで検索してみてください)
その肖像画は、渡辺崋山が書いた鷹見泉石の肖像画で、国立博物館が所蔵して国宝に指定されているものです。
この鷹見泉石は、幕末の古河藩の家老でした。
天明5年(1785)、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、現在の古河市で、当時、四軒町といった地に生まれました。泉石は引退後の名前で、実名は十郎左衛門忠常といいました。生誕地には碑が建てられていました。
鷹見泉石は、11歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるいました
藩主土井利位(としつら)が大阪城代であった折りに「大塩平八郎の乱」で鎮圧にあたりました。
また、優れた蘭学者でもあり、数多くの研究資料の収集にあたりました。そのため、渡辺崋山との交流も生まれました。
「鷹見泉石記念館」は、隠居後の鷹見泉石が最晩年を送った屋敷を公開しているもので、平成2年、「鷹見泉石記念館」として開館されました。
「古河歴史博物館」の近くにあり、歴史博物館の別館の位置づけのようです。建物は、寛永10年(1633)古河城主・土井利勝、古河城の三階櫓を作ったときの残り材を使って建てたと伝えられ、もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在の4倍以上)ものだったそうです。
長屋門は、再建されたものですが、母家は、修復されているものの当時のものだそうです。
この屋敷は鷹見泉石の御子孫が現在も所有しているそうです。
鷹見泉石が使用していた書斎は泰西堂と名付けられています。それは、座敷の床の間に「泰西堂」という掛軸が架けられているからです。
この軸は、長崎に来ていた清の文人江芸閣(こうげいかく)によって書かれたものだそうです。
「泰西」とは西洋のことで、鷹見泉石が、西洋の学問を学んでいたことにちなむものだそうです。
鷹見泉石は「泰西堂」という号も使用していました。
写真左手の床の間に架けられているのが「泰西堂」の掛軸です。
庭に珍木「楓樹」が植えられています。鷹見泉石は、この「楓樹」を植えたことから、「楓所」という号も持っています。、「楓樹」はマンサク科の落葉喬木で、日本には自生しない樹木です。
葉が三つに分かれているのが特徴です。
古代この中国では宮中に植えられ、それから天子のいるところを楓宸と呼ぶようになったと言われてています。
日本には、徳川吉宗が輸入し、享保12年(1727)閏正月17日に日光東照宮奥院や吹上御所に植えさせたという貴重な樹木です。
現在でも、現存する古木の楓樹は、皇居(旧江戸城)・寛永寺など、わすかだそうです。 この楓樹は、古河市天然記念物に指定されています。
赤印が鷹見泉石記念館です。

