そこで、今日は、王政復古のクーデターについて書きます。
倒幕をめざす薩摩藩の倒幕の密勅を準備し、10月14日に公布されます。
倒幕の密勅は小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、広沢真臣、木戸孝允と岩倉具視が関わったと言われています。
この密勅は、形式が異例で、天皇の直筆でなく、連署の三名の花押もありません。手続きにも疑問があり、古くから偽勅と言われていました。しかし、昨日の「八重の桜」では、岩倉具視自らが偽勅だと明言していたのには驚きました。
一方、倒幕を怖れた徳川慶喜は、土佐藩の山内容堂の建白を受けた大政奉還します。
大政奉還とは朝廷に政権を返還するということで、 この大政奉還により、討幕派は武力発動の口実を奪われてしまいました。
これに危機感を抱いた討幕派が12月9日に実行したクーデターが「王政復古」です。
12月8日、宮中で、二条摂政ら公卿と尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、芸州の浅野長勲らによる朝議が開かれました。
徳川慶喜と土佐藩の山内容堂は病気を理由に欠席しました。
慶喜の欠席は、「八重の桜」に出てましたね。
翌朝まで続いた朝議では、①長州藩の「朝敵」取り消し、②岩倉具視や三条実美などの蟄居、落飾の処分の取り消しなどが決定されました。
12月9日となり、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた尾張藩・土佐藩・薩摩藩・越前藩・安芸藩の5藩兵が京都御所九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限しました。
宮門を警備していた会津藩や桑名藩の藩兵は不意を突かれ退去せざるをえませんでした。
そして、親幕派の二条摂政や朝彦親王などは参内を禁止されました。
その一方で、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、「王政復古の大号令」を発しました。
王政復古により、①将軍職の廃止 ②京都守護職・京都所司代の廃止、③摂政・関白の廃止、④国事御用掛・議奏・武家伝奏の廃止など伝統的な旧体制が廃止されました。
そして、代わって、新たに総裁・議定・参与の三職がおかれ、新政府が誕生しました。
将軍職が廃止されても、慶喜は内大臣の職にありました。
そこで、12月9日18時頃から、御所内の小御所で明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれました。
これが、有名な小御所会議と呼ばれるものです。小御所は、京都御所の紫宸殿の東北にあり、 江戸時代は、天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見するために利用されました。
京都御所の参観を申し込むと身近にみることができます。
右上と左の写真は、昨年9月に御所参観した際に写したものです。
この会議のねらいは、慶喜の辞官・納地を決定することでした。
辞官とは内大臣の辞退で、納地とは領地の返上でした。
山内豊信・松平春嶽ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の実現を主張しました。
これに対し岩倉らが反対し激論が続きました。その中で、山内容堂が「幼沖の天子を擁して権力を私しようとするもの」と岩倉らを責めると、岩倉がただちその失言を責めたというのは有名な話で、昨日の「八重の桜」に描かれていました。
しかし、深夜になっても結論がでず、遂に議長役の中山忠能が休憩を宣言しました。
この時、会議に出席していた薩摩藩の参議岩下方平は、西郷隆盛にその状況を報告し意見を求めると、西郷は「ただ、一本の短刀があれば片付く」と述べ、その決意を岩倉に伝えさせました。この意味は山内容堂がいつまでも反対するなら短刀で刺し殺せばよい」という意味です。
このことが芸州藩を介して土佐藩の後藤象二郎に伝えられ、後藤象二郎から山内容堂に伝わり、再開された会議では山内容堂も矛を収め、辞官納地が決定されました。
これには幕府側は大いに反発しますが、公議政体派が巻き返しをはかり、政治は流動的になっていきます。
そうした動きは、次回「鳥羽・伏見の戦い」で描かれるのではないでしょうか。

