多門伝八郎筆記の3回目ですが、幕府の裁定に対して、多門伝八郎が異議を唱えて食い下がる場面です。
前回は、刃傷事件を起こした浅野内匠頭は田村右京太夫建顕に御預けの上切腹、吉良上野介はお咎めなしという幕府の裁定が決まったということを書きました。この裁定に対して、多門伝八郎ら四人の目付は若年寄に面会を求め、「五万石之城主、殊に本家は大身之大名」の浅野内匠頭を即日切腹させるのは、「余りに手軽之御仕置」であり、五万石の大名の浅野内匠頭が家名を捨て、御場所柄を忘れて刃傷に及んだのは上野介に越度(おちど)があったのかもしれません。」と上伸し、大目付と目付で再度糺問してから裁定するべきであると抗議したところ、若年寄は「尤至極」といって老中に言上したところ、すでに柳沢吉保(柳沢美濃守)に申上げて決着したことだから、そのように心得よと回答が返ってきました。
これに対して多門伝八郎一人が納得せず強いて「余りに片落之御仕置」と若年寄を通じて柳沢吉保に再び上申すると、柳沢は怒って多門伝八郎は目付部屋に控えさせられてしまいます。
ここは、多門伝八郎が自分の行為を誇っているようにも見受けられなくはありませんが、多門伝八郎の意見に若年寄たちが賛意を示していることは注目されます。
また、浅野内匠頭と吉良上野介に対する幕府の裁定に、柳沢吉保が大きく関わっていることがわかる部分でもあります。
今日も「日本思想体系27『近世武家思想』」の原文を書いておきます。
若年寄に御逢之儀相願、多門伝八郎申上候は、「先刻内匠頭存念相糺候処、私有体(ありてい)に申上候通、『奉対上え聊(いささかも)御恨み無之、上野介へ深恨有之候て、前後忘去仕、御場所柄も不憚(はばからず)、及刃傷候段、重々不届之儀奉恐入候。如何様之御仕置被仰付候共御返答可申上候筋無之』と、速成(すみやかなる)御答に御座候。仮初(かりそめ)にも五万石之城主、殊に本家は大身之大名に御座候。然る所今日直に切腹とは余り手軽之御仕置に御座候間、今日之切腹之儀は、乍恐私共小身之御役にても、御目付被仰付候上は、上之御手抜之儀は、不申上候では不忠に付、恐を不顧(かえりみず)奉申上候。且又縦(たとい)上野介儀、神妙に致し候迚(とても)、内匠頭五万石之大名、家名を捨て、御場所柄を忘却仕及刃傷候程之恨有之候はば、乱心迚(とても)上野介に越度(おちど)可有之哉も難計、唯私共両人にて差掛り存念相糺候計之儀を、余り御取用過候ても、後日浅野家は本家大名、殊に外様之事、何事可有之節は、公儀御手軽之御取計と可奉存候間、内匠頭切腹之儀は、猶又大目付並私共再応糺、日数之立候上、如何様共御仕置可被仰付候。夫迄は上野介儀も、慎被仰付、尚又再応御糺之上、弥(いよいよ)神妙に相聞へ、何之恨請候儀も無之、全く内匠頭乱心にて及刃傷候筋も可有之候ば、御称美之御取扱も可有之処、今日に今日之御称美は、余り御手軽にて御座候。其儀押て奉申上候」と、伝八郎・十左衛門・平八郎・権左衛門申上候処、若年寄被承、「至極尤之筋、御目付之御役柄も被相勤心底に見へ候」由、「猶亦老中方え言上可申」旨有之、扣居候処、猶又若年寄稲垣対馬守殿、加藤越中守殿被仰渡候には、「只今御自分申立候処、尤之至に候得共、最早松平美濃守殿被聞届、御決着有之候上は、右の通り被仰渡候旨可心得」と被申渡候処、伝八郎壱人強(しい)て申立候には、「美濃殿御一存之御決着に御座候はば、猶又被仰上可被下候。余り片落之御仕置、外様之大名共存候処も恥敷(はずかしく)存候。今一応被仰上可下候。夫共(それとも)最早言上に相成、上之思召も有之候はば、是非も無之仕合(しあわせ)、美濃守殿御一存之御聞届に御座候はば、私達(たっ)て申上候段被仰立可被下」旨申致候故、対馬守殿・越中守殿、猶亦美濃守殿え、伝八郎ヶ様申立候と被申立候処、美濃守殿立腹被致、「上え言上は無之候得共、執政之者聞届之儀を再応申立候儀難心得候間、伝八郎も差扣之格に部屋に可扣旨、井上大和守殿被仰渡候。是迄懸合之若年寄は、気之毒に被存候哉、不被罷出候。

