刃傷松之廊下についての裁定は、浅野内匠頭に対しては田村右京太夫に御預けの上、即日切腹であり、吉良上野介に対してはお咎めなく養生に勤めよというものでした。
これが、当時の「喧嘩両成敗」つまり「喧嘩があった場合には、双方とも同じように処罰するという原則」に照らして、不公平であるという議論があります。一方、刃傷松之廊下が喧嘩ではないので幕府の裁定はおかしくないという説もあります。
当時の老中たちも、喧嘩であれば両成敗すべきであるという点については十分承知した上で、事実究明が行われていいます。
梶川与惣兵衛が書いた「梶川氏日記」の中に、次のような部分があります。
なお、今回引用した「梶川氏日記」は「赤穂義人纂書 第2 赤穂義士資料大成」に収録されているものです。
以前紹介した書名は「梶川与惣兵衛日記」としてありましたが、「赤穂義士資料大成」では「梶川氏日記」となっています。
時計の間の御次へ参り候へば、豊後殿相模殿佐渡殿丹波殿大和殿対馬殿伯耆殿、其外大目付衆も御列座にて、先刻の一件御尋有之候に付、初中終の趣逐一に申上候、其後相模殿御申には、上野介手疵の儀は如何程の事に候やど御尋ゆえ、二三ヶ所にて可有之、尤深手にては有之間敷旨申上候、豊後守御申には、上野介事其節脇差に手を懸け、或は抜合などいたし候やと被仰候、拙者見及び候へ共、帯刀には手は懸け不申候段申上候、(後略)
これを読むと、梶川与惣兵衛は、取り押さえた浅野内匠頭を目付に引き渡した後、江戸城内の「時計の間の御次」に呼ばれ、老中列座のうえ、事情を聴取されました。
そこで、梶川与惣兵衛が事件の経過を逐一報告した後に、阿部豊後守が、梶川与惣兵衛に、「上野介が脇差に手をかけたり、抜き合わせたりしたか」と尋ねています。
それに対して、梶川与惣兵衛は「刀には手をかけていませんでした」と答えています。
ここが、喧嘩かどうかのポイントになります。刀に手をかけていたり抜いていれば喧嘩となるので、阿部豊後守がそれを確認しています。それに対して梶川与惣兵衛が吉良上野介は刀に手をかけていなかったと答えました。
そのため喧嘩とは判断されなかったわけです。
幕閣がこうした事実を把握したうえで、裁定が出されているようです。
ところで、「豊後殿相模殿佐渡殿丹波殿大和殿」と書かれた部分がありますが、これは時の老中たちです。
ちなみの時の老中は、
阿部豊後守正成
土屋相模守政直
小笠原佐渡守長重
秋元但馬守喬朝
稲葉丹後守正通 です。
そして、「対馬殿伯耆殿」は、若年寄の本多伯耆守正永と稲垣対馬守重富をさしています。

