浅野内匠頭に対する裁定が下り、浅野内匠頭は奥羽一関藩田村右京太夫に御預けとなりました。
田村家で浅野内匠頭の請取から切腹までの様子を記録した「田村右京太夫殿に浅野内匠頭御預一件」という文書があります。
これは、「赤穂義人纂書 第2 赤穂義士資料大成」に収録されています。
それを読むと、どのように請取、切腹がどのように行われたかがわかります。
そのうちで、今日は、浅野内匠頭を請取るところまで書きます。
1、まず、なぜ一関藩田村右京太夫が御預りに選ばれたかですが。
当時、田村右京太夫は奏者番でした。そして、たまたま江戸城にいて、浅野内匠頭とは特別な縁故がなかったため、白羽の矢がたったようです。
2、請取に向かった人数は、総数75名超の人数です。
目付1名、物頭2名、物頭並1名、小姓組2名、中小姓3名 徒歩20名、徒目付Ⅰ名 足軽30名 駕籠かき 15名 (三ッ道具 一組)
3、最初、桜田門(多分内桜田門つまり桔梗門のことだと思います)に向かいましたが、浅野内匠頭の請取は平川門で行われました。4、請取った際の浅野内匠頭の服装は大紋のままでした。
浅野内匠頭は乗物(駕籠)に乗せられ、駕籠には錠が下され、青網がかぶせられました。
5、護送の順路は、平川門 ⇒ 大手門前 ⇒ 八代 洲河岸(やよすがし) ⇒ 日比谷御門 ⇒ 桜田 ⇒ 愛宕下通り を通って、田村邸には表門から入っています・
到着は、午後4時ごろです。
一、元禄十四年巳三月十四日、公家衆登城、勅答被仰出に付登城致候處、公家衆御馳走に被附候浅野内匠頭、吉良上野介に意趣有之由にて、九ッ時前、大廊下押込にて短刀を抜切付、早速有合之面々、双方に取分申候。
一、暫有て、奏者番誰々居候哉と奥より尋有之に付、当番之外右京斗詰居候由申遣之、又追て、右京は浅野内匠少も続き由緒無之候哉と、井上大和守殿を以御尋候故、由緒等無御座由申遣候。
一、九ッ半時、時計之間次に、我等を相模守殿御呼候て、浅野内匠事、其方へ当分被成御預候、早々引取申候様にと被仰聞候故、拙者途中召連候て罷越候には及申間敷哉、又内匠に宿にて逢可申哉否と申候へば、両様其夫には及不申由被仰に付、左候はば私は致退出、追付人数差遣可申由申候て致退出候。
一、帰宅早速人数等支度申付候、八ッ半時此支度出来候て、左之通人数差出申候、
目付 麻上下 檜川源吾 物頭 同 牟岐平右衛門
物頭 同 原田源四郎 同並 同 菅治左衛門
右四人騎馬 委細直に申合遣之、
但受取候而、乗物に網懸可申哉之儀も伺候の様にと申付候、
羽織袴 小姓組二人 同 中小姓三人
同 歩行二十人 外に徒目付 大泉喜内
右之者共年寄共申合、
棒モタセ 足軽三十人 三ツ道具一組 乗物舁十五人
一、乗物内より板打付錠構、 一、青網引乗物内に入
一、刀箱為持遣す、先にて差料相渡候節入候為に、其役人も申付候。
(中略)
一、平川口へ出候様にと被申聞、即案内之儀何も願候へば御小人目付先に立候由
一、足軽共其外人馬下馬に差置候、平川口へ廻り候様支度の由申達候處、即其段御小人を以被遣、内を参候間に、足軽共平川口迄参罷在候由
一、内匠大紋の儘にて請取候 (後略)
一、平川口より平右衛門源四郎先に乗り、源五治左衛門跡に押続き、乗物の廻り侍共厳し取包、外に棒持候足軽共取廻、跡に三ッ道具立、道筋平川口より大下馬先、やよすがし、日比谷御門、桜田、愛宕下通り、此方表門に申の刻入申候

