そこで、今日は、その「錦の御旗」について書いてみます。
「錦の御旗」は、天皇の軍隊すなわち官軍であることを表す旗です。
この「錦の御旗」は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうとした承久の乱の時に初めて授与されたといわれています。
また、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとした時にも掲げられたといいます。
こうした記録をもとに、岩倉具視は、3か月も前から準備していました。
「岩倉公実記」によると、慶応3年10月6日に、大久保利通と品川弥二郎に錦の御旗の製作を依頼しているそうです。
岩倉は、新政府軍が幕府軍と戦闘になった場合に、新政府軍が天皇の配下の軍である事を明白にするために、岩倉具視が友人の国学者・玉松操(たままつみさお)にデザインを依頼して、密かに準備していたものです。
大久保が京都市中で錦を調達し、数日後に品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てたといいます。。
『日月』章の御旗が二旒、「菊花」章の紅白旗がそれぞれ十旒完成し、半分は長州に残し、残りは京都の薩摩藩邸に運ばれ秘蔵されていました。
正月4日に、朝廷は、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、天皇から節刀とともに「錦の御旗」が親王に授与されました。
仁和寺宮は、「錦の御旗」を掲げる薩摩藩兵に先導され、新政府軍の本営である東寺に入りました。
親王が軍装で出陣するのは、護良親王以来のことでした。
「錦の御旗」が翻ることにより、新政府軍が官軍となり、幕府軍は賊軍となることになります。
この錦の御旗が、鳥羽伏見の戦場に翻ったのは、正月5日の午後2時ごろです。
これにより、勝敗は完全に決しました。
新政府軍は士気が挙がる一方で、幕府軍は戦意を喪失し淀城方面へ配送し始めます。
日和見を決め込んでいた諸藩は、雪崩を打って新政府軍側に味方するようになりました。
この時に、征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王は、名前の通り仁和寺の門跡でしたが、直前の慶応3年12月に、復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王と名乗りました。
戊辰戦争では、会津征討越後口総督 として官軍の指揮を執りました。
明治15年に、宮号を小松宮に改称し、小松宮彰仁親王と名乗るようになりました。
この小松宮彰仁親王の銅像が、上野公園内の上野駅から上野動物園に向かう途中に左手にあります。