昨年9月に訪ねていましたが、まだブログには書いていませんでしたので、今「鳥羽伏見の戦い」を書いていますので、ちょうど良い機会ですので、アップします。
淀城は、京阪本線「淀」」駅から徒歩7分程度の距離にあり、現在は「淀城跡公園」となっています。淀は昔から、京都に運ばれ物資の集積地であり、大坂方面や大和方面から京都に入る要衝でした。
淀城は、宇治川、桂川が合流する付近に築かれています。
元々は、室町時代に細川政元が築きましたが、その城を修復し天正17年に豊臣秀吉が側室茶々に与えたことは有名です。そのため、以後茶々は「淀殿」とよばれることとなりました。
この淀君の淀城は現在の位置より北へ約500メートルの位置にありましたが、その後は廃城となりました。
現在の淀城は、江戸時代の元和9年(1623)松平定綱により築かれました。
その後、城主が、永井家、石川家、戸田家、松平家と変わった後、享保8年に稲葉正知が10万石で城主となりました。
その後、幕末まで稲葉家が城主をつとめました。
稲葉家は、春日局の子孫であり、譜代の名門でした。老中も5人だし、鳥羽伏見の戦いの際も、藩主の稲葉正邦は老中で、江戸に詰めていました。鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとしますが、淀藩に拒絶され、淀城に入城できませんでした。
このことは、幕府軍にとって軍事的に打撃であるともに、現職の老中を出している藩が寝返るということは政治的に大打撃となり、幕府軍の敗北を決定づけました。
淀城は、明治になって、建物は取り壊せされ、現在は、石垣と堀だけが残されています。
本丸跡には、「淀城址」の石碑が立っています。

