浅野内匠頭の切腹についての田村家の記録まで書きましたが、浅野内匠頭の切腹の場面を記録したものに「多門伝八郎覚書」があります。
多門伝八郎は、大目付庄田下総守、目付大久保権左衛門と田村邸に行き、浅野内匠頭の切腹を検分しました。
「多門伝八郎覚書」は、浅野内匠頭の切腹の様子を記録したものとされていて、「忠臣蔵」にもそれをもとに演出された場面が多くあります。「多門伝八郎覚書」は結構長いので全てを書くと大変ですので、よく話題になる四つの部分だけを抜書きします。
一つ目は、浅野内匠頭の切腹場所についての大目付への異議申し立てです。
二つ目が、片岡源五右衛門の暇乞いを許した点です。
三つ目が、浅野内匠頭が自分の刀で介錯してもらう場面です。
最後が、有名な浅野内匠頭の辞世です。
右写真は、泉岳寺にある「浅野内匠頭長矩のお墓」です。
1、切腹場所に対する異議申し立て
多門伝八郎は、浅野内匠頭の切腹が、庭先で行われることに異議を唱えます。
夫より下総守方ニ向逐一見分致候処以之外相違ニ御坐候、夫故先刻御問合申候処、諸事御手抜無之様ニ御談じ申候処、逐一言上之外、御用意之処如何と御尋申候節、御手落も無之段御答 に付、御任申候、何か拙者共差出ケ間敷様被仰聞候間、其儘差置候処、此仕合に御坐候、後刻言上は銘々可申上旨厳重ニ申上候故、下総守義殊之外立腹にて「可然可被致候、大検使之事に候、拙者ニ御任せ御銘々より趣意可被申立候」と既に大取り合共相成候(略)
2、片岡源五の暇乞い
田村右京太夫から、浅野家の家来の片岡が暇乞いを願い出たことが伝えれえます。
庄田下総は無言、そこで多門伝八郎は、よろしいだろう、一目ぐらい合わせるのは慈悲であるから許すと許可します。
庄田下総も「よいようにしろ」と答えて実質的に許可しました。
これにより、片岡源五は、浅野内匠頭に会うことができました。
右京大夫被罷出、只今浅野内匠頭家来片岡源五右衛門と申もの罷出、主人義於手前切腹被仰付候段承り、主従之暇乞に候間、一眼主人を見申度段相願候。再応押返し候得共、一度御手前様方え申達呉候様、気色を替へ相願候に付、又候差留候ても、何ぞ珍事出来候ては如何と存候故、先御達申候由被申聞候」由被申聞候處、総守一向無言にて「夫敷之事、大検使え被申達候 程之義にも有之間敷」と被申候て、不相成共何共一言不被申。伝八郎左右京太夫江申聞候には「不苦候(略)、一眼位ハ生上慈悲故拙者承届候、如何に」と下総守江申聞候処「思召次第」と被申候(後略)
其内右京太夫被罷越、「先刻多門伝八郎殿御一存に被仰渡候趣、内匠頭家来片岡源五右衛門え申渡候処、殊之外難有仕合に奉存候と、拙者え申述呉様申聞候間、小書院之次之間に無刀に為致(いたさせ)、家来大勢警固為致扣置候」と申聞候間、「随分無油断警固致され、心付可申」段申渡候。(後略)
3、自分の差料での切腹
そして、いよいよ浅野内匠頭長の切腹の場になります。
庄田下総守はじめ面々が、大書院に揃い、浅野内匠頭に申渡しを行うと、浅野内匠頭はいつもの様子でそれを請けました。
この時、浅野内匠頭は、吉良上野介の容体がどうか聞いたので、目付二人が「浅疵であるが、老人でもあり、急所でもあり、危ないのでは」と答えると浅野内匠頭はにこっと笑ったと書かれていています。
その後、切腹場所に移動します。
その際に、浅野内匠頭は、自分の差料で介錯してくれるように依頼するとともに、その差料を介錯人に遣りたいとお願いし、庄田下総、目付衆ともに許しました。
銘々座に付、内匠頭も座に付候て被申候には、「御検使衆へ一ッ願有之。拙者差料之刀、定て是迠御預り被置可被下候 右刀にて介錯致貰度候。右刀は跡にて介錯人え差遣度」と被申候(後略)
4、浅野内匠頭の辞世
浅野内匠頭が辞世を残したいというので、硯と紙を渡すと次の辞世を詠みました。
風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残りを いかにとかせん
硯筥・紙を乞候故、差出候処、刀参り申候うちに内匠頭硯箱引寄、ゆるゆると墨を摺り、筆を取り
風さそふ 花よりも猶 我ハまた 春の名残を いかにとかせん
と書て、刀を介錯人御徒目付磯田武太夫え相渡候内、相待被居候。右之歌は御徒目付 水野杢左衛門請取、田村右京太夫え差出候に付、受取申候内、介錯人磯田武太夫 古法之通介錯致し、切腹相済見届之返答有之、死骸等は田村右京太夫方にて取計候故、跡之義は右京太夫え申渡、各退散也。
忠臣蔵でなじみの場面が続いていて、我々にはわかりやすい話です。
しかし、これらが書いてある「多門伝八郎覚書」の信憑性については、疑問が呈されています。
その話は次回に書きます。

