野口武彦氏は、ちくま新書「忠臣蔵」の中で、

庄田下総守が浅野内匠頭の切腹場所を座敷内でなく庭先とした措置について、多門伝八郎が異議を唱えた点は、事実であろうが、
「『多門伝八郎筆記』の根本史料としての信憑性はその辺までである。(中略)『多門伝八郎筆記』の記述それ自体が、史料として扱うには疑惑の度合が多すぎるという方向に進んでゆくのだ。ありていにいって、同書は、せっかくの客観的真実を伝えていながらそれをご破算にしてします壮大なホラバナシである。」
と「多門伝八郎覚書」は信頼できないと決めつけています。
そして疑わしい点を5点あげています。
第一点は、切腹の直前に、田村邸に片岡源五右衛門が今生の別れをするために訪ねてくる話です。
片岡が訪ねてきた時刻は、伝奏屋敷の片づけと鉄砲洲の藩邸からの立ち退きで忙殺されているはずであり、(そんな余裕がないし)、さらに、赤穂側の史料にまったく書かれていない(から疑わしい)としています。
第二点は、浅野内匠頭の辞世の一首です。
浅野内匠頭がゆっくり墨を摺り、辞世を詠んでいるが、現場の空気はピリピリしていて、そんな悠長な場面ではなかったし、田村家・浅野家の記録にそんな記事がない(から疑わしい)と書いています。
第三点は、翌3月15日に広島藩浅野家から仙台藩伊達家と一関藩田村家に切腹の場所が不当だと厳重な抗議があったという話が書かれているが、事実そんなことはなかった(点が疑わしい)としています。
第四点は、3月15日に、多門伝八郎の登城前に番町の自宅に片岡源五右衛門が麻上下を着用して訪れ昨夜の礼を述べたと書かれているが、実際には、この日、内匠頭の葬儀があわただしく行われ、片岡は泉岳寺で落髪している(ので事実としては疑わしい)
第五点は、11月23日に、片岡源五右衛門が、江戸城内の「中之口」に参上して面会を申し入れたので、多門伝八郎は片岡源五に面会した際に、片岡が手土産に赤穂の塩を持ってきたとされているが、これではいくら何でも話が出来すぎているとしています。
宮沢誠一氏も、三省堂「忠臣蔵」で、同様に書いています。浅野内匠頭に片岡源五右衛門が暇乞いに来た時、小書院の次の間」で、無刀のまま田村家の家臣に警固され浅野内匠頭が切腹するのを垣間見ることができたという。(中略) これはおそらく事実ではなく、多門が捏造した虚構の話であろう。
さらに、浅野が切腹のときに自分の差料で介錯してほしいと願ったとか、有名な辞世の歌を詠んだとか、翌日に片岡が裃をお礼の挨拶にきたとか浅野本家の松平綱長が「庭前切腹」について伊達綱村に厳重に抗議したと疑わしい話が続出するのである。
ここまでくる、当事者の主観的な思い入れからくる記憶違いというよりもむしろ意図的な伝説の創出といったほうがいい。気骨のある悲憤慷慨型の目付であった多門伝八郎は、浅野に同情するあまり自らが紡ぎだす「忠臣蔵」伝説に酔ってしまっているのである。
このようにかなり批判が強い「多門伝八郎覚書」ですので、内容は注意して読む必要がありそうです。

