右下写真は聖路加看護大学脇にある「浅野内匠頭邸跡」の石碑です。
上屋敷に刃傷を伝えたのは、戸田采女正氏定、浅野美濃守長恒と言われています。
「浅野内内匠頭が吉良上野介に斬りつけたため切腹を仰せつけられた。しかし、家中一同騒動をおかさないよう」と伝えました。この浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことは、すぐに赤穂に知らせなくてはなりません。
そこで、「松之廊下の廊下での刃傷の発生」だけを報じた浅野大学の書状を持って早水藤左衛門と萱野三平2名が出発しました。早水藤左衛門は馬回り役、萱野三平は中小姓でした。
出発時間は、14日の午後2時ころでした。
二人は頭には鉢巻をして、胴にも固く晒しを巻き、駕籠の中央に吊り下げられた白布に取りすがって駕籠に乗りました。
二人は不眠不休で、赤穂に急行しました。
赤穂へ急ぐ早駕篭が、萱野三平の生家の前を通過する時、思いがけず、三平の母の葬式に出会いますが、三平は 泣いて手を合わせながら、そのまま駕篭を急がせたと云う逸話も残されています。
その後、14日の夜8時頃、「内匠頭切腹」と「赤穂藩改易」との情報を伝えるため、第二陣が出発しました。
第二陣の使者は原惣右衛門と大石瀬左衛門の2名でした。 原惣右衛門は足軽頭、大石瀬左衛門は馬回り役でした。
このうち原惣右衛門は、刃傷事件の起きた日は、伝奏屋敷に詰めていました。
勅使饗応役は、藩士が饗応の道具類を持って伝奏屋敷に詰めていたのです。
浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたことは、目付鈴木源五右衛門により、すぐに伝奏屋敷にも伝えられました。
浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたため勅使饗応役は直ちに佐倉藩主戸田忠真に変わりました。そこで、伝奏屋敷の持ち込んでいた道具類はすぐに片づけなければなりません。
この指揮をとったのが、原原惣右衛門です。
原原惣右衛門は、瞬く間に処理を終了し、幕府の立会人を感心させたそうです。
そして、赤穂への急使役も勤めたのでした。
第一陣は、3月19日早朝寅の後刻(午前4時ごろ)に赤穂に到着しました
第二陣の到着は19日夜戌の後刻(午後8時ごろ)ということです。
江戸から赤穂まで155里(約620キロ)を、早駕籠を使って移動しました。
通常なら17日かかる行程でした。
それを4日半で走破しました。
ものすごいスピードで走りすぎて行ったことになります。
伝奏屋敷の跡は、現在の三菱UFJ信託銀行本店および日本工業倶楽部会館となっています。(右下段写真)

