昨日の「八重の桜」でもあどけない少年たちがけなげに戦い命を落としていくことに八重が涙していましたが、その思いは八重だけではないでしょう。
また、会津戦争第一の悲劇「白虎隊」や第二の悲劇「西郷頼母邸での一族21人の自刃」の導入部分つまり「飯盛山で切腹することになる伊藤悌次郎の白虎隊入隊の話」や「西郷頼母が妻千恵にいざという時の覚悟を迫る場面」があり、これから悲劇の話が続くものと思います。
しかし、昨日の「八重の桜」では取り上げられていませんでしたが、二本松城の落城の際の悲話も忘れてはなりません。
そこで、今日は「二本松城落城の悲話」について書いてみます。
二本松城は、老兵も駆り出されて守備する状況だったので、新政府軍が攻め寄せてくるとまたたくもなく城も炎上しはじめ落城の危機に陥りました。
藩主の丹羽長国は家族と共にすでに米沢に向かって落ちのびており、城中には、重臣としては、家老の丹羽一学、大城代内藤四郎兵衛、城代服部久左衛門、丹羽和左衛門たちが残っていました。
重臣たちは、いよいよ最期の時がきたことを覚悟しました。
その中で、大城代内藤四郎兵衛は、城外に討ってでました。
「我は大城代、城の首将なり、いたずらに自刃するものかは。者ども我に続け」と言って、城門を開いて討って出て、激闘の中で見事な最期を遂げたと言われています。この「大城代・内藤四郎兵衛戦死の地」の石碑が箕輪門の入り口近くにあります。右写真の左手に写っているんですがわかりますでしょうか。
ですから「箕輪門」から討って出たのですね。
この内藤四郎兵衛は、家臣から絶大な信望があった人物だそうです。
当時は、殉死は、固く禁じられていました。しかし、この四郎兵衛の死を知った家臣が切腹して殉死しているんだそうです。
また、家老・丹羽一学は、城代・服部久左衛門、郡代丹羽新十郎とともに見事な割腹自刃を遂げています。
丹羽一学は、病弱な藩主丹羽長国に替わって藩のかじ取りを行い、恭順か抗戦か藩論が紛糾した際に、主戦論を唱え、徹底抗戦に藩を導いてきました。
そして、それを補佐してきたのが丹羽新十郎です。3名は、落城の責任をとり、城の中腹にある土蔵奉行宅で自尽し 壮絶な最後を遂げました。
介錯は大島成渡で、自刃直後に大島は役宅に火を放ち、たちまち奉行宅は火炎につつまれたそうです。
本丸に向かう途中に「日陰の井戸」と呼ばれる「日本三井(さんい)」の一つに数えれれる井戸がありますが、そこに向かう途中に、「二本松藩士自刃の地碑」(右写真)が建てられています。
丹羽一学の辞世は
風に散る 露の我が身は いとはねど 心にかかる 君が行末
丹羽一学が気にしていた藩主丹羽長国は、米沢に逃れた後、9月10日に、二本松藩が新政府に降伏しました後、新政府から隠居を命じられ、家督は養子長裕が継ぎました。
また、本丸まで上ると天守台の脇に「丹羽和左衛門・安部井又之丞自刃の碑」があります。
丹羽和左衛門は、丹羽新十郎の養父でした。和左衛門は、息子の新十郎とは反対に恭順を唱えてきました。新十郎の自刃の知らせを受けたあと、甲冑を脱ぎ、陣羽織を着て床机に腰掛け割腹し、膝上に広げた軍扇の上に内蔵を引き出して前屈みになって絶命したといいます。
安部井又之丞は勘定奉行で、時には和左衛門とは対立したことはありましたが、死に時は一緒と和左衛門の後を追うようにして自刃しました。
安部井又之丞の息子の安部井磐根は、仙台の列藩会議に派遣されていて、二本松戦争に加わりませんでしたが、後に衆議院副議長を務めているそうです。
こうした自刃について、星亮一氏は、「二本松少年隊のすべて」に収録された「霞ヶ城炎上」の中で次のように書いています。
二本松藩首脳のこうした最期は、見事というほかはなかった。あの会津藩でもこのように堂々と自決した重臣はいなかった。考えてみれば、不思議と言えば不思議だった。
会津城下に敵が攻め入った時、家老二人が郭内の屋敷で自決したのを除いて、降伏の時も自決する人はいなかった。
会津藩の場合、籠城戦を仕切ったのは梶原平馬、山川大蔵というまだ二十代の若い家老だった。老臣たちは周章狼狽して、なす術がなく、若い二人に託した。
この二人には戦後の処理が任された。とても自決どころではなかった。まったく責任がうやむやになったのは、数多くいた老臣たちだった。
何ら責任を問われることなく、明治を生きている。それに比べれば、二本松の武士道は上から下まで一本、しっかり貫かれていた。
会津藩にとっては、なんとも手厳しいことが書いてあり、異論を持つ方もいるかもしれませんが、二本松藩の重臣たちに対する評価には異論がないのではないでしょうか。
先週土曜日、二本松城を訪ねて、重臣たちの自刃の場も見てきました。
そして、こちらに戻り、二本松戦争について少し調べてみましたが、今まで知らなかった二本松藩の戦いが、会津藩同様に悲壮なものであったことがわかりました。
そして、戦争とは常に悲劇をともなうものだなと改めて思いました。
「八重の桜」は、次回からいよいよ多くの悲劇を生みだした『会津戦争』となります。

