大石内蔵助は、赤穂城を開城した後も、御家再興のための働きかけをおこなっています。
5月12日には、原惣右衛門と岡本次郎左衛門を京都の普門院に派遣し、赤穂遠林寺の住職を務めたこともある義山に江戸に下向し御家再興のため運動してもらうようお願いをしています。
また、5月17日には、参勤交代で大阪にきている広島藩主浅野綱長と三次藩主浅野長澄に御家再興への助力をお願いしています。
20日には遠林の祐海を江戸に遣わして、護持院の隆光に御家再興に援助のお願いするよう依頼しています。
このように、大石内蔵助は御家再興のための努力を最大限行っていますが、大石内蔵助が考えている御家再興は、単に浅野家再興を目指すものでなく、「人前」が立つものを目指していました。
「人前」とは面目ということのようです。
大石内蔵助が5月12日に京都の普門院にあてた書状に明確に書かれています。
なお、この書状も赤穂市編纂「忠臣蔵第三巻」に収録されています。
何とぞ於江戸御役人中様方え手を求、大学閉門蒙御免候上、人前も宜敷相勤候様に仕度候。
これについて、山本博文先生が「赤穂事件と四十六士」の中で、詳しく説明してあります。
それによると、7月22日付けの祐海宛にの書状に大石内蔵助がの考えが書かれているとして、その現代語訳を示した後で
次のように書いています。
大石は、赤穂藩が再興されて家臣が元通り召し抱えられることを追究しているわけではない。あくまで大学が「人前」がなる。すなわち面目が立つ形で赦免されることをめざしているのである。(中略)
大学の赦免すらなかなか見通しが立たないことであるのに、吉良の出仕停止まで求めたのでは、この嘆願が受け入れられる可能性はほとんどなかったと思われる。
しかし、喧嘩両成敗のもとにありながら一方的な敗者となった亡君浅野内匠頭の鬱憤を散じ、旧赤穂藩士が勝者になるためには、この大学の「人前」はどうしても実現しなければならないことだったのである。
なるほど、大石内蔵助は、単純に御家再興がなればよいと考えていた訳ではないのですね。すごくハードルの高い御家再興を考えていたようですね。
これであると、最後は、討ち入りという結論にならざるを得ないのではないでしょうか。