大石内蔵助の御家再興を第一に考えるという考え方については、先日、紹介しました。
これに異を唱えていたのが、江戸急進派の人たちで、その中心人物は堀部安兵衛です。
大石内蔵助と堀部安兵衛は、論戦を展開します。
この二人のやりとりは、堀部安兵衛の残した「堀部武庸(たけつね)筆記」(赤穂市編纂「忠臣蔵第3巻」)に書かれています。
堀部安兵衛は、主君の鬱憤をはらすことが家臣の努めであると考えて、仇討を第一に考えています。
そこで、堀部安兵衛は、大石内蔵助の江戸下向(つまり仇討の実行)を催促します。
それに対して大石内蔵助は6月12日付で、返事を書いています。
その内容は、
この時節大勢で下向するのはよくない。早々に下向したいが、左の腕に腫れ物ができているので、江戸にいけない。 また、堀部安兵衛が上洛する必要もない
という返事でした。
7月13日に、大石内蔵助は再び手紙を書いています。
そして、大石内蔵助は、大学の安否がはっきりしないうちは、どんな「存念」があっても大学のためにならない、「我意」を立てる考えはなく、このことは赤穂の面々も承知している
と次のように書いています。
此上は大学様御安否ノ様子次第、存念可申談覚悟ニ御坐候、御安否承リ不届内ニハ何様ノ存念有之候共御為宜様ニト幾重ニモ心底ヲ尽シ可申候、我意ヲ立て可申儀トハ毛頭不存、其段赤穂ノ面々モ右同前ノ了簡申合置候
これに続いて、7月22日付の手紙で、大石内蔵助は、再び次のように述べて、浅野大学の安否がわかるまでは、仇討などの考えはないと言っています。
(堀部安兵衛の)御了簡違ニ候哉ト何モ不審申事ニ候、右申入候通大学様御安否迄ハ是非共外ノ了簡存念毛頭無之候、赤穂ノ面々モ此段委細申含置候テ合点ニテ候間、左様ニ御心得御尤ニ御座候
これに対して、堀部安兵衛は、8月19日の書状で 次のように言っています。
つまり、浅野大学は、一度「分知」した「連枝」にすぎない。亡君を主君と仰ぐ家来の身としては、亡君に忠義を尽くすことが本意である。
すなわち、何が何でも浅野内匠頭に忠義をつくしたいということのようです。
大学様御事ハ一度御分知ニ被為成他ヘ御分別被成候上ハ御連枝ト申迄ニテ御座候、各様我々始メトシテ御亡君様ヲ主君ト奉仰候御家来ノ身トシテ、御亡君ヘ忠ヲ尽シ候事本意ニ奉存候
これに対して10月5日付の書状でも、大石内蔵助は、浅野大学の人前が立つ形での「御家再興」をめざす旨を伝えています。
注目すべきことに、大石内蔵助は、この書状のなかで、大石内蔵助が目指していることが実現も難しいことだと認めているます
つまり、
定テ能事ハ万万一ツモ有之間敷トハ覚悟申候ヘトモ只今迄相待申モ是故候、千ニ一ツモ面目二モ有之人前罷成候首尾二成行候ハバ亡君ニモ御快方ニハ参間敷候哉(後略)
と書いているのです。
こうした論戦をしている時に、吉良上野介義央の隠居の情報が入ってきます。
それ以降の動きは、来週に書きます。
右上写真は、泉岳寺にある大石内蔵助の銅像です。