この日には、白虎隊の自刃、西郷頼母一族21人の自刃、田中土佐・神保内蔵助の切腹と悲劇が連続しておこります。
これらについて順に書いていきます。
その中で、今日は、「白虎隊の自刃」について書きます。
戸ノ口原で敗退した白虎隊は、数グループに分かれて退却を始めました。
その中に、教導の篠田儀三郎に指揮されたグループもありました。
新政府軍の侵攻は素早く、戸ノ口原から若松城下に向かう途中にある滝沢峠には、新政府軍が充満していました。
それに気が付かず、不用意に姿を見せたため、隊士の永瀬雄次が銃撃され負傷しました。
そこで、篠田儀三郎のグループは、街道をさけ、湿地や山道に分け入って若松城下を目指し、飯盛山の東側からは、戸ノ口堰の洞門をくぐり抜け、西側に出ることとしました。
この時の人数は、飯沼定吉の回想録に寄れば17人だったようです。
洞門を抜け厳島神社の裏に出て、そこから山腹を辿って飯盛山の南面に迂回して、鶴ヶ城をみる と
城下は早や紅蓮の炎を上げ、君侯のいます鶴ヶ城は全く黒煙に包まれ、天守閣などは今にも焼け落ちるかと思われた。(「平石会戊」)
という状況でした。
飯盛山と鶴ヶ城との間は、2千8百メートルほどだそうです。
実際に飯盛山に登って、鶴ヶ城を見てみると、天守閣は見えるものの、詳細がはっきりわかるわけではありませんでした。
ですから、鶴ヶ城が燃えていたのではありませんが、城下が燃える炎を見て、鶴ヶ城が燃えているものと考えても仕方ないと思われます。
これを見て、飯沼貞吉の回想録では、
山腹に整列しはるかに鶴ヶ城に向かって決別の礼をなし、銃を捨て刀を抜き、あるいは腹を切り、あるいは喉を突いた
白虎隊の自身の様子を書いています。
しかし、実際には、炎をみて、即座に自刃が決まり、さらに隊士が一斉に自刃したわけではないようです。
敵の重囲を衝いて城に戻るべきだと主張する隊士もいて、議論となりましたが、疲労困憊し空腹の状態では生きて敵に捕まり恥辱を受けるもの遺憾ということになり、自刃と決まったようです。
飯盛山で自刃した白虎隊士は次の20名です。自刃した時刻は、午後2時から4時頃だったようです。
安達藤三郎、有賀織之助、飯沼貞吉、 池上新太郎、石田和助、
石山虎之助、伊東悌次郎、伊藤俊彦、 井深茂太郎、篠田儀三郎
鈴木源吉、 津川喜代美、津田捨蔵、 永瀬雄次、 西川勝太郎
野村駒四郎、林八十治、 間瀬源七郎、簗瀬勝三郎、簗瀬武治
このうち、飯沼貞吉は、奇跡的に生き残り、飯盛山で自刃した白虎隊士は19名とされています。
その白虎隊士の墓が飯盛山にあります。(右上写真)
実は、白虎隊士の遺骸は、新政府軍により手をつけることを禁じられていました。
約三ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後に飯盛山に改葬されたのだそうです。
白虎隊士が自刃した場所は、墓とは少し離れた場所にあります。
そこには、供養塔や白虎隊士の像などが建てられています。(右下段写真)
さて、白虎隊士たちがどのように自刃していったか、中村彰彦氏が文春文庫「白虎隊」に書いています。
飯沼貞吉は母から出陣の際にもらった短冊を襟から取り出して二度、朗々と高らかに読み上げました。
次いで、篠田儀三郎が文天祥の詩「零戦丁洋を過ぐるの詩」を吟じました。
負傷していた石田和助は、「人生古より誰か死無からん。丹心を留取して汗青を照らさん」と誦し、「手傷苦しければお先に御免……」と両肌を脱ぎ、刀を腹に突き立てて見事な最期を遂げました。
これを見た教導の儀三郎は、その太刀を抜いて逆手に持って、一気に喉を突いて倒れたました。
敵弾を腰部に受けてた永瀬雄次と林八十治は、対座して互いに刺し違えようとしましたが、永瀬は林の息の根を止めることができずに絶命しました。
そこで林は野村駒四郎に介錯を頼み、野村は、一刀のもとに介錯し、返す刀で 自らも切腹して果てました。