今日は、その西郷頼母一族の自刃について書きます。
西郷頼母は、会津藩の家老でした。
松平容保が京都守護職を受諾した時には、急ぎ江戸に上り、強く反対しました。
その後、容保が京都に駐在している際にも、京都守護職を辞任することを進言し、国許で蟄居を命じられていました。
そして、会津戦争が始まるに際して、家老に復帰し、白河口総督を命じられましたが、敗戦の責任をとって、謹慎を命じられていました。
しかし、母成峠が破られたため、西郷頼母も呼び出され、背あぶり山の防衛を命じられていました。
若松城下の武士は妻子を含め新政府軍が侵攻してきた場合には、鶴ヶ城に籠城するよう指示を受けていました。
当然、西郷頼母の一族も、籠城が予定されていました。
西郷邸は、鶴ヶ城の大手門前の一等地にありました。(西郷邸跡には石碑が建っています。右上写真)
しかし、西郷頼母および妻千恵子の決意は違うものでした。
城に入ることにより、一人前の働きのできない婦女子が貴重な食糧を浪費しないようにして、かつ新政府軍に捕まり恥辱をうけることを避けるために、選んだ道は、自ら命を断つことでした。
この決断の背景には、西郷頼母が、京都守護職就任に反対してきていること、また会津戦争が始まってからは、和平恭順論を唱え、藩内で一人浮き上がっていたという事情が大きく影響していたように私には思えます。
新政府軍が、城下に侵攻してくると、千恵子は、長男吉十郎を鶴ヶ城に送り出した後、西郷千恵子は、一同を一部屋に集め、覚悟を述べました。
そうして、次の21人が、西郷頼母邸で自刃をしました。
頼母の妻・千恵子(34歳)
頼母の母・律子(58歳)、
頼母の妹・眉寿子(みすこ 26歳)、妹・由布子(ゆうこ 23歳)、
長女・細布子(たいこ 16歳)、次女・瀑布子(たきこ 13歳)。
三女・田鶴子(たづこ 8歳)、 四女・常盤子(とわこ 4歳)そして五女の李子(すえこ 2歳)
その他に一族の西郷鉄之助夫妻
小森一貫斎の家族5人、
軍事奉行町田伝八とその家族の2人。
浅井次郎の妻子2人。
このなかには、4歳の常盤や2歳の季子たち幼い子供たちも含まれています。
この幼な子の命を絶つ時の母千恵子の思いはどんな思いだったのでしょうか。
西郷頼母一族は、自刃にあたり、辞世を残しています。
なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ (妻:千重子)
秋霜飛兮風冷 白雲去兮月輪高 (母:律子)
死にかへり 幾度世には 生るとも ますらお武夫となり なんものを(妹:眉寿子)
武士の 道と聞きしをたよりにて 思ひ立ちぬる よみの旅かな (妹:由布子)
手をとりて ともに行きなば迷はじよ (次女:瀑布子)
いざたどらまし 死出の山道 (長女:細布子)
これは上の句を瀑布子が詠み、下の句を細布子が詠んで完成させたものでした。
この一族の自刃の場に居合わせた人物がいます。後に初代衆議院議長となる土佐藩士中島信行です。
この日、新政府軍の先陣を切っていたのは土佐藩でした。土佐藩士中島信行は、一隊を率いて郭内に入りました。
そして、大手門の前に大きな邸宅があり、鉄砲を打ち込みましたが、それに応ずる気配がありませんでした。そこで家の中に入り、長い廊下を進み奥の間に達しました。
そこには、凄惨な光景が広がっていました。驚くことに多くの婦女子が自刃していたのです。
その中にあでやかな女子がいました。年のころ17、8歳でした。
まだ息はたえていませんでしたが、もう眼はみえていませんでした。しかし、耳はまだ聞こえるらしく、物音に気付いて少し身を起し、かすかな声で「敵か味方か」と言いました。
中島信行は、この場を見て敵であるということはあまりにも残酷な気がしたため「味方だぞ」と答えました。
するとこの女は、身の周りを探って短刀を探しました。そして手にした短刀を差し出しました。
中島信行は、短刀で命を絶ってもらいたいのだろうと察したので、涙を振って介錯し邸外に出たというのです。
中島信行が、介錯した女子は、長女の細布子だったと言われています。
西郷頼母の屋敷を復元したのが「武家屋敷」です。
広大な西郷頼母邸が復元されています。
その中には、家族が自刃した部屋も復元されています。
その部屋には「自刃の間」という説明板が置かれています。右写真の左にその説明板が写っています。
さらに、別の部屋には、自刃の様子が人形で復元されています。
ここでは、西郷頼母邸の悲劇に悲しむ人が多くいるようで、人形たちにお賽銭が挙げられていました。
私も自然と合掌していました。