「白虎隊の自刃」も影が薄くなるほどの活躍ぶりでした。
そこで、今日は、八重の活躍について書いてみます。
新政府軍が、城下に突入し、半鐘がなると、八重一家も城内に入りました。
八重の自宅は、鶴ヶ城の西側にありました。鶴ヶ城の大手門は東側にありましたが、新政府軍は、東側から攻めてきたため、大手門からの入城は危険でしたので、八重たちは南側に廻り、三の丸経由で城に入ったと言われています。
この時、八重は、スペンサー銃を持って、入城しました。
スペンサー銃というのは、アメリカで開発された銃で、弾を銃の後ろから装填する後装式銃で、世界初の7連発銃でした。
アメリカの南北戦争中に大量生産され、北軍で主力銃として使用されたものです。
この銃は、山本覚馬が、長崎のレーマン・ハルトマン商会のレーマンから送られたものを八重に贈ったものでした。
右写真は、新撰組記念館に展示されていたスペンサー銃です。
新政府軍は、甲賀町口を突破しました。
甲賀町口は、滝沢から鶴ヶ城につながる道の重要拠点で、ここを抜けると大手門まで一直線で1キロメートルもありません。
ここを守備していたのは家老田中土佐ですが、ここも簡単に突破されてしまいました。
六日町口を突破された家老の神保内蔵助とともに、切腹して責任を取ったのは八重の桜で描かれていました。
右写真は、甲賀町口門跡です。
甲賀町口を突破した新政府軍は、大手門前に大砲を並べ、砲撃を開始しました。
会津藩の主力は旧式のゲベール銃や火縄銃でした。
これに対して、新政府軍は、銃はエンフィールド銃やスナイドル銃、スペンサー銃でした。大砲は、大山弥助(巌)が改良した弥助砲が中心でした。
砲兵隊長の大山弥助は、鶴ヶ城からの銃撃が届かない安全距離内に陣地を構え砲撃をするつもりでした。
それは、射程距離600メートル程度のヤーゲル銃を前提にしたものでした。
八重は、一隊を率いて、大手門を警護するために造れらた曲輪である北出丸に陣を敷きました。
北出丸からは、堀を挟んで大手門前は正面に見えます。右写真をご覧ください。北出丸の堤の上からみた甲賀町口方面です。
八重が所持していたスペンサー銃は、射程距離が700~800メートルでした。
この銃であれば、堀を越えて、新政府軍の砲兵陣地を攻撃できました。
砲術に詳しい八重は、指揮官を狙いました。砲撃は、指揮官の命令一下、整斉と行われうることを十分承知していたからです。
新政府軍の指揮官は、ヤクの毛をあしらった赤熊(しゃぐま)・白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)をかぶっていましたので、指揮官はすぐわかりました。
そこで、八重は指揮官である大山弥助を銃撃することができました。
大山弥助は、右の股を射貫かれてしまいました。
大山弥助は、若松城攻撃の初日に負傷し一日も戦場にいることなく、三春に設置されていた病院に後送されることとなってしまったのです。
さらに、「八重の桜」に演じられたように、彼女は四斤山砲も持ってきて、城壁や石垣の一部を崩して敵に向けてこの砲を設置し、新政府軍を撃ち下ろしたとも言われます。
こうした初日の戦いで、新政府軍の先陣の役割を負っていた土佐藩では死者・負傷者が続出しました。
これにより、短期結着を狙った新政府軍の初期の目論見は見事に打ち砕かれました。
この成果には、八重の功績は非常に大きかったのではないでしょうか。
何しろ、主力部隊は藩境守備や城外での戦いに出払っていて、城内に残っていたのは、老兵や少年兵、婦女子が中心だったのですから。