日曜日には、西郷頼母一族の自刃について書きました。、
しかし、会津戦争当時、若松城下各所で多くの婦女子が、新政府軍に捕まるのを恥辱として自ら命を絶ったのは、西郷頼母一族21人だけではありませんでした。
後に会津藩初の陸軍大将となった柴五郎は、8月23日、自身が若松城下から近在の面川村に避難させられた後、城下に残った祖母つね子(81歳)、母ふじ子(50歳)、兄の妻とく子(20歳)、姉そゑ子(19歳)、姉さつ子(7歳)は、そろって自刃をしました。
柴五郎は「会津人柴五郎の遺書」の中で、「懊悩流涕(おうのうりゅうてい)」やむことなし」とその悲しさを書いています。
柴五郎の母ふじ子は、八重の幼ななじみの日向(ひなた)ユキの叔母にあたります。
つまり、柴五郎は日向ユキとは従兄弟同志となります。
8月23日に、日向ユキの家族が鶴ヶ城に入れなかった場面は、26回「八重、決戦のとき」で描かれていましたが、日向ユキの家族5人と柴五郎は、鶴ヶ城に入城できず、一緒に面川村に逃れています。
この面川村には、家老内藤介右衛門の一族も逃れていましたが、9月17日の戦いの際、避難していた内藤家菩提寺の泰雲寺が包囲され逃れないと覚悟した介右衛門の父内藤信順は、妻と4人の娘、さらに介右衛門の妻とその子供2人を介錯し、その後自らも命を絶ちました。
この一族自刃により、内藤介右衛門は家族全員をなくしてしまいました。
このように会津戦争の中では、男だけでなく幼い子供たちも含め多くの婦女子が命を落としています。その数は、名前のわかる人たちだけ233人に上るそうです。
こうした多くの会津藩の婦女子の潤節を讃えた碑が、善龍寺(会津若松市)にある「奈輿(与)竹の碑」です。
この碑名は、いうまでもありませんが、西郷頼母の妻千恵子の辞世の歌から取られたものです。
西郷千恵子の辞世の歌
なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそ聞け
この歌の意味は
「細くてしなやかな竹が風に身を任せている姿に似ているわが身ですが、細竹にも強風に折れないための節があるように、私達にも忠節があることを知ってください」といった意味でしょうか。
会津女性の強固な意思が明瞭に詠われているように感じます。
この碑は戊辰戦争終結から60年目に当たる同じ戊辰の年の昭和3年に、「嫋竹会(なよたけかい)」によって建てられました。
嫋竹会は、殉難婦女子の英霊を慰め、その忠誠貞節を追慕し、会津女性の遺烈を後世に伝えるために組織された会です。
表には「奈輿(与)竹の碑」と刻まれ、裏には、戊辰戦争で亡くなった233名の会津藩の婦女子の名が刻まれています。
この碑の前で毎年5月1日に「嫋竹会」主催の「奈与竹碑前祭」が行われているそうです。
千重子の辞世の歌は、「奈輿(与)竹の碑」の右脇の石碑に刻まれています。
この碑文は、白虎隊の一員として飯盛山で自刃した後、奇跡的に蘇生した千重子の甥「飯沼貞吉」が書いたものです。
千重子は、会津藩士・飯沼粂之進の二女として生まれました。
飯沼貞吉は、千恵子の兄の飯沼時衛の次男として生まれました。
白虎隊出陣の際には、千恵子に挨拶にいっているとも言われています。
善龍寺は、会津藩主保科正之の会津入部とともに建立されたお寺で、西郷家(元々は保科家)菩提寺です。
右最上段の写真は、寛政9年(1797)に建造されたといわれる山門です。
そのため、歴代の西郷家(保科家)一族の墓があります。
ここに、西郷頼母と千恵子の墓(右三段目写真)、それに自刃した「二十一人の墓」(右四段目写真)があります。
西郷頼母は、籠城戦の最中、家老萱野権兵衛への連絡と称して、体よく城外に追放されます。
その後、米沢、仙台を経て、函館まで転戦し、新政府軍と戦います。
降伏後、館林藩で預けられました。この時期に、姓を旧姓である「保科」に変えています。
謹慎した後間もなく許され、伊豆松崎での謹申学舎塾長となり、その後、東照宮権禰宜や霊山神社宮司など神職などに就いた後、明治32年に会津に帰り、大手門前の十軒長屋と呼ばれる貧しい家屋に住み、明治36年病気で亡くなりました。74歳でした。
西郷頼母夫妻の墓は、西郷頼母が生前に準備したもので、墓石に、「保科八握髯翁墓 室飯沼千重子位」と刻まれています。
「八握髯翁」とは西郷頼母が晩年に用いた号です
隣の先祖保科正長の墓と比べると大変小さいものでした。
また、西郷夫妻の墓から少し離れた墓域に、西郷邸で自刃した人たちの墓である「二十一人の墓」があります。
お墓にお参りするまでは、21基の墓碑があるものと思っていましたが、21人を合葬したもの1基で墓碑銘は「二十一人の墓」となっています。