前回まで、大石内蔵助と江戸急進派の論戦について書きましたが、論戦はなかなか決着がつきません。
あいかわらず、江戸急進派が、早期の仇討を主張するため、大石内蔵助は、江戸急進派の説得のため、9月初めに原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助を江戸に派遣しました。
しかし、3人は江戸の空気に触れ説得されてしまいます。
そこで、大石内蔵助は、10月8日に、進藤源四郎、大高源五を江戸に派遣しました。しかし、この二人も逆に説得されてしまいました。
そこで、大石内蔵助は、自ら急進派説得のため、江戸に下向します。
お供として、奥野将監や河村伝兵衛がついていきました。
大石内蔵助は、11月2日に、江戸に着きます。そして、11月10日に 宿泊している芝三田松本町の前川忠太夫(浅野家出入りの日傭頭)方に江戸の同志を召集し、会議を開きました。
その様子は、「堀部武庸(ほりべたけつね)筆記」(赤穂市編纂「忠臣蔵第3巻」に収録)に書かれています。
この会議に出席したのは、全員で15人でした。
大石内蔵助、奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎、原惣右衛門、岡本次郎左衛門、
それに、堀部安兵衛 奥田孫太夫 高田郡兵衛の3人
次の間には以下の人たちがいました。
潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七、勝田新左衛門、中村清右衛門
堀部安兵衛ら三人が、
「三月中に討入りを決行するべきです。大学が閉門中に鬱憤を晴らせば大学の「人前(面目)も立つ」し、君臣の礼儀も立ちます」と主張しました。
それに対して大石内蔵助は
「3月と期限を定める必要はない。ともかく安否を見極めたい」と答えました。
堀部安兵衛たち3人は
「それは納得できない。3月と主張するのは、3月が内匠頭の一周忌にあたるからで
この頃までには、大学の処分が決まるか、またたとえ決まらなくても時節を待ったという事で公議を重んじたことになります。3月中に様子がわかれば本望ですが、3月中にも様子が知れなかったならば1~2ヶ月は見合わせ、吉良方の様子を探ります。
ともかく期限を決めないと、皆の心底が決まらず、運動するにも身も入りません。
ともかく3月中と決めていただきたい」と申し入れました。
大石内蔵助は「それでは3月中に決行するというつもりで申し合わせよう」ということになりました。
それでは、「来春早々に、江戸に来ていただき相談させていただきたい」と堀部安兵衛がいうと、進藤源四郎が、江戸で大勢が集まると事が露見する恐れがあるので、具体的な計画は京都の円山か霊山で相談しようと提案し、大石内蔵助も同意しました。
次の間に控えていた大高源五、潮田又之丞、中村勘助の3人が広間に入ってきて、「三月と決まったか」と質問をし、「3月に決まった」と答えると、彼らは「それこそ本望だ」といって次の間に戻りました。
このように決まったのは、先に江戸に下向していた人々が堀部安兵衛ら江戸急進派に同調したことが大きかったようです。
この後、大石内蔵助は、14日に泉岳寺に参詣し、浅野内匠頭の菩提を弔いました。
そして、その後、目付の荒木十左衛門、榊原采女を訪ね、広島藩主浅野綱長など親族を訪ね、お礼を申し上げるとともに御家再興についてお願いをしました。
そして、10月23日に 奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎を伴って江戸を発ち帰京しました。

