大石内蔵助が江戸に下向しての江戸での会議から時間が遡りますが、9月に吉良邸が呉服橋門内から本所に屋敷替えしていますので、今日は、その話をします。
吉良上野介義央は屋敷の移転を2回経験しています。
1回目が鍛冶橋門内から呉服橋門内への移転、2回目が呉服橋門内から本所への移転です。
松之廊下の刃傷事件の際に、吉良上野介の屋敷は、呉服橋門内にありました。しかし、吉良上野介が生まれた屋敷は鍛冶橋門内にありました。
その鍛冶橋門内にあった屋敷が元禄11年9月6日に発生した大火で焼失してしまったので、呉服橋門内に移転しました。
この時の大火は、京橋南鍋町の商家から出火し、数寄屋橋門内から神田・上野・浅草・千住・両国へと燃え広がりました。
この火事で、大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町家1万8700も焼け、死者3000人以上となったといわれています。
元禄11年9月6日に起きたこの火事は、「勅額火事」と呼ばれています。
これは、先に完成した寛永寺の根本中堂に掲げるため、東山天皇の御宸筆による「瑠璃殿」と書かれた勅額が京都より到着した日に起きた火事のため、「勅額家事」と呼ばれるようになったのです。ところで、「勅額火事」の由来となった勅額が、現在も上野寛永寺に残されています。
寛永寺の根本中堂に掲げられている額がそれです。(右写真)
300年前の勅額がなにげなく掲げられているのに驚かされます。
この「勅額火事」によって、鍛冶橋門内の屋敷が焼失したため、吉良上野介は呉服橋門内に新たに2931坪の土地を拝領しました。東隣が徳島富田藩蜂須賀家でした。
吉良上野介は、ここに屋敷を建てましたが、その費用は、上杉家が負担したと言われています。
その新屋敷完成後2年後に、吉良上野介は、松之廊下の刃傷事件に遭遇します。
そして、3月26日、高家の御役御免を願い出て了承されました。
そして、9月3日に呉服橋門内の屋敷を返上して本所に屋敷替えとなりました。
本所の屋敷は、元は旗本の松平登之助の屋敷で、約2550坪ありましたが、空屋敷となっていた屋敷を拝領したものでした。
ところで、本所松坂町の吉良邸とよくいいますが、本所松坂町という町名が付けられたのは、赤穂浪士が討ち入ってしばらく経った後の宝永年間になってからと考えられています。
従って、吉良上野介義央が生きている時代には、本所松坂町と言う町名はありませんでしたので、「吉良上野介の屋敷が本所松坂町に屋敷替えになった」とか「赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸に討ち入った」という表現があったら、基礎的な点で間違えていることになります。(あまり目くじらを立てることではありませんが・・・)
この屋敷替えについては、東隣の蜂須賀家が「赤穂の浪人たちが討ち入るかもしれないと危惧し、昼夜にわたって警備しているため、家中が困窮して迷惑だから、他に移転してほしい」と幕府に働きかけたためという話もありますが、真実かどうかは不明です。
この話は、堀部安兵衛の「堀部武庸(ほりべ たけつね)筆記」に載っています。
堀部安兵衛は、この屋敷替えの話に関連して、
上野介の屋敷が本所あたりに替わるらしい。討ち入りを実行する時節がきたともっぱら取りざたされている。
上野介の従弟婿にあたる松本藩主水野忠直は、御伽の座頭が上野介の屋敷替えは公儀が浅野家家来に「討ち候へ」といっているようなものだと言ったので、水野も「成程その通りだ」と答えたと親しい人に語ったらしい。
という江戸の噂を8月19日付の書状に書いて内蔵助に知らせています。
これも「堀部武庸筆記」に残されています。
こうした噂の他にも江戸の噂を、堀部安兵衛は、大石内蔵助へ書き送っています。
こうした噂は堀部安兵衛が意識して集めたものと思いますが、昨日、鶴ヶ島の小人さんがコメントに書かれたように、江戸っ子たちは、かなり、討ち入りを期待していたのも事実なのではないでしょうか。
そのため、こうした噂話が自然と堀部安兵衛の耳にも届いてきたもとの思われます。
だから、上方から下向してきた原惣右衛門や大高源五も江戸の雰囲気にのまれてしまったので、急進派に替わったという面はあると思います。

