今回は、「中野竹子の戦いと死」、「山川大蔵の鶴ヶ城入城」が取り上げられるようです。
そこで、今日は「中野竹子」について書いていきます。
中野竹子は、会津ではかなり有名で、「八重の桜」放映以前は、山本八重より有名であったようです。
中野竹子は、弘化3(1846)年3月、会津藩士中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩邸内で生まれました。
照姫の薙刀指南役でもあった赤岡大助に薙刀を習いかなりの腕前でした。武芸だけでなく書道に長け、20歳の頃には、備中庭瀬藩主板倉侯夫人の祐筆を勤めるほどでした。
慶応4年(1868) 8月23日に、新政府軍が若松城下に侵入し、鐘の音が大きく鳴り響きました。
中野竹子の母の孝子、竹子、妹の優子の三人が出陣の準備をしました。
三人は、それぞれ長い黒髪を切り落とし、裏庭に埋めたと言います。
そして、「照姫様警護のため身を捧げる時がきました。照姫様をお守りするために戦いましょう!」と決意を固めました。
「大口の袴、白布の鉢巻、白布の襷(たすき)」のいでたちに、柳腰に帯刀、薙刀を小脇に抱え、照姫のいる鶴ヶ城へと向かいました。
しかし、城門は、既に固く閉ざされていました。
そこで、かねて決めてあった集合場所に向かいました。
仲間6人が集まった頃、「照姫様は坂下(ばんげ)へ避難された」という話を耳にしました。坂下とは、会津若松の西に3.里ほど離れた宿場町で、現在は会津坂下町となっています。
そのため、中野竹子達は、一路坂下へと向かいました。しかし、照姫は坂下にはいませんでした。一同ががっかりし、一晩坂下の法界寺で過ごしました。
そこで、越後口から引き揚げてきた藩兵とともに、高久にいた家老の萱野権兵衛に若松城に入場することを願い出ました。萱野は最初は許しませんでしたが、強く希望するので、旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい)と共に行くことを許してもらいました。
8月25日、衝鋒隊(しょうほうたい)が若松城下に向かったので、中野竹子たちも従いました。
越後街道が、若松城下に入ろうとする場所に、湯川に架かる柳橋という橋があります。
この柳橋で、越後口から引き揚げてくる会津藩兵を迎え討つべく新政府軍が待ち構えていました。
両軍が対峙し銃撃戦が開始されました。
時期を見て、会津側は、白兵戦を挑みました。その中で、中野竹子たちは、薙刀を振って、先へ先へと進んでいきます。
舞うようにして斬り進む中野竹子の姿に敵も味方も驚嘆したと言います。
いつしか、女子だと気が付いて新政府軍からは、「生け捕れ」という声も出たとも言われています。婦女子たちも「生け捕られるな。生け捕りの恥辱を受けるな」と互いに励ましあいながら戦闘を続けました。
そうしているうち、先頭となって果敢に斬り込んでいる中野竹子に銃弾が命中します。
重傷を負った中野竹子を誰が介錯したかについては、諸説があるようですが、中野竹子の首は新政府軍にはわたらず、翌日には、坂下の法界寺に届けられ、丁寧に埋葬されました。
そのため、中野竹子の墓碑は、法界寺にあります。竹子はまだ22歳の若さでした。
この中野竹子たちの戦いの見事さから、中野竹子たちは、娘子軍(じょうしぐん)、娘子隊(じょうしたい)と呼ばれ、竹子が、その部隊の隊長とされています。
しかし、当初から、こうした名称の部隊があった訳ではなく、後に付けられた名称のようです。
中野竹子たちの奮戦ぶりを称えるという気持ちが込められた命名なのではないでしょうか。
現在の柳橋は、湯川にかかる鉄橋となっています。両側には、名前の通り、今でも大きな柳が植えられていて、柳橋の目印となっていました。(右最上段の写真)
幕末当時、柳橋は付近に藩の刑場があり、家族がこの橋のたもとにあった井戸水で別れの水杯をかわしたことから、柳橋は涙橋とも呼ばれていました。
涙橋という名前は、今では、会津戦争で藩のために命をささげた女性のために流す涙を表しているようにも思えます。
「中野竹子殉節之地碑」は、柳橋から少し北に向かった所にあります。
街道から少し奥に入った所に、石碑と石像が建てられています。
「中野竹子殉節之地碑」は昭和13年に建られました。(右中段の写真)
石碑の裏面には、出陣の際に薙刀に結び付けてあったという辞世の句
武士(もののふ)の 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも
が刻まれています。
また、碑の手前に、中野竹子の石像があります。(右下段の写真)
平成4年に建立されたもので、石像正面にの碑文には「赤誠」と刻まれています。
竹子の凛とした勇ましさがよく表現されているように思いました。

