さらに、神保雪の最期も描かれていましたが、神保雪も悲劇の人です。
そこで、今日は神保雪について書いていきます。
神保雪は、鳥羽伏見の敗戦の責任をとって自刃した神保修理の妻です。神保修理の自刃については、「八重の桜」では第21回「敗戦の責任」で取り上げられました。ブログでは 「神保修理の墓」で書いてあります。
神保雪は、井上丘隅(おかずみ)の三女として生まれました。
井上家は家禄600石で、「譜代の者」でした。
「譜代の者」というのは、会津藩初代藩主保科正之が最初の藩主となった高遠藩以来の者という意味で、特別の家柄を誇りました。
文久2年(1862)雪17歳の時に、神保修理と結婚しました。
その年、松平容保は、京都守護職に任命され、12月に京都に上りしました。
神保修理も松平容保に随行し、京都に詰めました。
従って、新婚生活は、ほんのわずかであったことになります。
その後、神保修理は慶応2年(1866)に、長崎への留学を命じられました。
この間、神保修理は、会津に帰国した形跡がないようです。
当時、会津藩兵は、1年間京都に駐在した後、一旦帰国するというサイクルでしたが、幹部たちは、帰国は許されなかったようです。
これは、「八重の桜」で山本覚馬が会津に帰国する場面がないことでもわかると思います。
京都駐留の留守家族の不安な様子は、「八重の桜」で山本覚馬の妻うらをはじめとした山本家一族が心配する様子がたびたび描かれていましたが、神保雪の不安もそうであったと思います。
慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いに敗れたのは神保修理が将軍慶喜に江戸での再起を建言したためだと厳しく非難され切腹を命じられることになりました。
この時に、雪は急遽、江戸に上り、修理と面会はできたようです。
修理は、慶応4年(1868)2月12日に切腹しました。
悲しみの雪は、他の会津藩士たちとともに会津に戻ります。
一方、父の井上丘隅は、鳥羽・伏見の戦いにも参加しています。
そして、会津戦争が始まるや、白河口に出陣しますが、戦いで負傷し家で傷をいやしていました。
しかし、8月23日の新政府軍の会津城下への侵入に際しては、甲賀町口郭門を死守しようとします。
右上写真が甲賀町口郭門の跡です。
しかし、銃弾にあたり負傷しました。そこで、甲賀町口郭門近くの自分の屋敷に戻りました。
自分の屋敷に戻ると、そこでは、妻のトメ、長女のチカ、三女の雪が自刃の用意をしていました。
神保雪は、新政府軍が侵入したとの早鐘がなると、城に入るのではなく、新政府軍と戦うため、戦の準備をして、甲賀町口郭門に向かいました。
その時、修理の父神保内蔵助と合い、女子が戦うことを強く戒められたため、やむ得ず、甲賀町口郭門近くの実家に寄ると、母と姉が自刃しようとしているため、雪も一緒に死のうとしていたのでした。
井上丘隅は、雪の姿を見つけて、「雪は、神保家に嫁いだ身であるから、神保家の人々と生死を共にするように」といいました。
そこで、雪は父の意を悟り、大手門近くの神保家に行こうとしましたが、既に敵の手で断たれており、止むえずく西に向かいました。
そうしているうちに、神保雪は、川原口で中野竹子たちに会い、一緒に行動をすることにしました。
中野竹子たちは、板下(ばんげ)まで行きましたが、照姫がいないため、翌日、家老の萱野権兵衛に一緒に戦うことを願い出て、許可をえました。
そして、中野竹子たち娘子隊(じょうしたい)は、8月25日、柳橋(右写真)で新政府軍と戦いましたが、その戦闘において、神保雪は娘子隊の一員として戦いました。
この戦いでは、「八重の桜」で描かれていたように中野竹子はなくなります。一方、神保雪は大垣藩兵に生け捕らえられてしまいます。
神保雪は自害しようとしますが、手を縛られ猿ぐつわをはめられているため、自害できませんでした。
そして、たまたま大垣藩の陣営にやってきた土佐藩の隊長吉松速之助が放免を主張しましたが聞き入れられませんでした。
そこで吉松速之助は、神保雪の願いにより秘かに脇差を貸し与えました。
神保雪はこの脇差で見事に自刃し果てました。ときに神保雪、26歳でした。
一方、神保雪を送り出した父井上丘隅は、雪が邸を出たあとすぐ母と姉を介錯した後、自刃して果てました。
また、義父の神保内蔵助も、同じ23日に甲賀町口郭門近くの土屋一庵邸で田中土佐とともに切腹しました。
神保雪は、自分自身が自刃するだけでなく、夫、父、母、姉、婚家の父をすべて自刃でなくすということになりました。
会津戦争では、身分の高い低いに関係なく多くの悲劇が繰り広げられたのですね。
戦いの悲惨さを改めて知らされます。