そこで、そのお礼も込めて、今日は「八重の桜」関連の記事を書きます。
会津戦争では、激しい戦闘が繰り広げられたため、多くの負傷者がでました。
この負傷者の看護に、会津藩の女性たちが懸命にあたっていますが、この負傷者の治療看護の指揮をとったのが、古川春英です。
過去の「八重の桜」でも、しばしば出ていますし、前回の「包囲網を突破せよ 」にも出ていました。
しかし、あまりご記憶がない方も多いかもしれません。
「八重の桜」で演じているのは小市 慢太郎です。
写真を最下段に載せましたので、ご覧になると「あぁ、この人か」と思い当たると思います。
今日は、その「古川春英」について書きます。
古川春英は、蘭学医です。腕は確かなんですが、保守的な会津藩内の医師たちに排除されてきました。
しかし、会津戦争では、藩から呼び戻され、負傷者の治療に大活躍した人物です。古川春英は、岩代国耶麻郡駒坂村(現在の河東町)の農家に生まれました。
13歳で医師になることを決意し、若松の山内春瓏の家弟となって医術を学びましたが、漢方医学の物足りなさを感じ、会津藩を脱藩して大坂の緒方洪庵に入門しました。
安政4年(1857)、会津藩が蘭学所を開設しました。
山本覚馬は、この蘭学所の教授になりました。
これを聞いて、古川春英は会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を許され、蘭学所の教官となりました。
これは、「八重の桜」でも取り上げられていました。
古川春英の腕は確かでしたが、会津藩では、漢方医学が強く、古川春英は医師仲間からは疎外されました。
その後、箱館に渡って会津藩の陣屋詰め医師となった後、再び大坂の緒方洪庵のもとで学びました。
さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事しました。
ボードウィンの下には、全国から大勢の優秀な若者が学びにきていました。
松本良順もその一人です。松本良順と出あったことが、古川春英の将来に大きな影響を与えました。
慶応4年(1868)会津戦争が始まり、多くの負傷者が送られてくるため、会津藩は、幕府に応援を依頼しました。
そして、やってきたのが松本良順です。
松本良順は会津に赴きましたが、着任して、古川春英が会津にいないことを知るやいなや、古川春英をすぐに呼ぶよう藩首脳部に強く訴えました。
驚いた会津藩は慌てて古川春英を呼び戻しました。
会津に戻ってから以降は、古川春英は獅子奮迅の働きをしました。
当初、日新館が負傷者の収容施設(つまり病院)となっていました。
ここで、松本良順を院長役にして、古川春英は負傷者の治療に大車輪で働きました。また、会津藩の婦女子も負傷者の看護に献身的に働きました。
しかし、8月23日、新政府軍が、城下に侵入すると、新政府軍に日新館が占領されるのを危惧して、日新館に火を放つと、鶴ヶ城内が病院となりました。
この場面は、前回の「八重の桜」で描かれていました。
籠城戦中も、負傷者は増加する一方ですが、その中で古川春英は、懸命に治療にあたりました。
そして、籠城していた婦女子たちも照姫の指揮のもと目覚ましい活躍をしました。
奥女中たちは、自分の貴重な衣裳や帯を、負傷兵の看護のため提供したと伝えられています。
会津戦争後は、島村(会津若松市東町)の治療所所長となりました。
そして、治療所が若松千石町に移り、古川春英も移り、患者の治療や子弟の教育に力を傾注しましたが、明治3年に流行したチフスの治療に当るうちに自らも感染し、11月7日亡くなりました。享年43歳でした。

