この戦いが、後に「長命寺の戦い」と呼ばれる激戦です。
その指揮を執るのが佐川官兵衛です。
そこで、今日は、「佐川官兵衛」について書いてみます。
佐川官兵衛は、会津藩士・佐川直道(家禄は300石)の子として生まれました
佐川官兵衛は、安政年間の江戸勤番中に、本郷で大火が起きた際に、幕府の火消と刃傷沙汰を起こし、相手の旗本を斬ってしましいました。相手方とは表沙汰にせず内密にするとことなり穏便に済まされましたが、官兵衛は、物頭を罷免され謹慎を命じられ会津に帰されました。
それ以後、容保が京都守護職となっても、佐川官兵衛は国元で謹慎していましたが、慶応2年(1866)に物頭に再任し、藩士の子弟を選んで別撰隊が組織され、その隊長を命じられ上洛しました。
また、会津藩は京都に日新館の分校を開き、佐川官兵衛は学校奉行にも任じられました。
慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の役が勃発し、佐川官兵衛も出陣しました。
佐川官兵衛は刀を奮って戦っていましたが、敵の弾丸が眼を掠めて目を傷めました。
しかし、佐川官兵衛、これにひるまず敵中に斬りこみ縦横無尽に暴れまくりました。
そして、撤退命令が出た際、目に太陽の光があたり目が痛むので、傘をさしてゆうゆうと撤退したと言われています・
このような官兵衛を新政府軍は「鬼官兵衛」と呼んで恐れたそうです。
会津戦争では、越後口防禦の任につき、精鋭の朱雀四番士中隊長として越後に向かいました。長岡藩家老河井継之助とらとともに共同して新政府軍とたたかいました。
しかし、長岡城の落城、新発田藩の降伏、新潟港の陥落など越後口がでの戦いが劣勢となるなか、白河口の敗報が伝わり、若松城に帰城しました。
若松城に戻ってからは若年寄に任ぜられて若松城の防衛にあたり、さらに、その後一千石の家老に任ぜられれました。
これは、前々回の「八重の桜」の一場面として出てきていましたね。
藩境から軍勢が戻り充実したものの、包囲する新政府軍も軍を増援してきました。
そこで、会津藩は、城外へ1000名の精兵で出撃する作戦をたてました。
佐川官兵衛は、その指揮者を命じられました。
作戦決行の前夜、壮行会を兼ねて酒席を設けました。
この席で、佐川官兵衛は、「必ず新政府軍を撃滅します。不幸にしてそれができなかった場合には、再び入城してご尊顔を拝することはいたしません。」と強い決意を述べました。
これに対して、容保は官兵衛に正宗の刀を下賜し激励をしたのでした。
この席で、佐川官兵衛は、酒を飲みすぎてしまいました。
酒宴の席で、そのまま寝込んでしまった官兵衛は、翌朝出撃と決められていた未明を過ぎても遂に目覚めず、諸隊が勢揃いしたのは、すでに陽も昇った「卯の下刻(午前7時)頃」でした。
本丸北の金蔵前に整列した後、鉄門前に勢揃いし、容保は太鼓門前で馬に乗って見送りました。
佐川官兵衛隊は、西大手門を出て、融通寺町郭門を出て、長州藩、土佐藩、大垣藩の本陣となっていた長命寺を攻撃しました。一時期は、長命寺を占拠するという戦果を挙げましたが、すぐに新政府軍の反撃にあい、長命寺は奪え返されました。
激しい戦闘となり、「佐川官兵衛の身も危ない」との報告が容保に届き、「佐川官兵衛は恐らく死ぬ気だ」と考えた容保は撤退命令をだし、軍勢の引き揚げを指示しました。
これにより、午後2時ごろ、佐川官兵衛隊は、撤収しました。
この戦いは、「長命寺の戦い」と呼ばれ、8月23日以来の城下での最大との戦いでしたが、会津藩の戦死者110人もしく170人とも言われ、約100人もの負傷者を出しました。
そのため、作戦は大きな成果がなく終わったとも言われる一方、若松城への糧道は確保する点では大きな成果があったという説もあります。
右三枚の写真は、いずれも長命寺の写真で、最上段は本堂、中段は、会津戦争時代の弾痕が残る築地塀で、手前に黒い点となっているのが弾痕です。最下段は、弾痕の痕の拡大写真です。
佐川官兵衛はこれ以後、城外で転戦を続け、遂に開城まで再び入城することはありませんでした。

