若松城籠城戦での婦女子の戦いは見事なものした。
この活躍は他藩士も驚かせました。
美濃郡上藩の凌霜隊(りょうそうたい)の隊員たちは
「この藩の女性は天晴、この城のあやうきを見て、必死の奮発をして、敵を討ち取り、あるいは討ち死に、またこの場に出ざる女房たちは、老母や子供を刺し殺し、家に火をかけ自害するものあり、後世賞すべきものなり」
と書いているそうです。
籠城した女性たちは、傷病兵の救護、兵糧作り、弾丸作りに獅子奮迅の働きをしました。
さらに敵軍が撃ち込んできた砲弾に水で濡らした布団、衣装などを被せて砲弾の爆裂を防ぐ「焼玉押さえ」までしています。
失敗すれば砲弾の破裂と共にわが身を散らすことになるのです。
昨日の山川大蔵の妻登勢の行動が、まさにこれで、その決死の思いには驚かされざるを得ません。
この婦女子の戦いの中心となって、婦女子の籠城戦の総指揮を執ったのが、照姫です。
照姫は、上総飯野藩主・保科正丕(まさもと)の三女として、天保3年(1832)に麻布新堀の屋敷で生まれました。
そして、天保13年(1842)、数え年13歳の時、会津藩第8代藩主・松平容敬の養女となりました。
飯野藩保科家は、もとは高遠藩保科家の分家です。高遠藩保科家は、すなわち会津藩松平家ですので、飯野藩保科家と会津藩松平家は親戚となります。
松平容保も、美濃高須藩から会津藩第8代藩主・松平容敬の養子となりましたので、照姫は容保の義姉となります。
照姫は、嘉永3年(1850)、豊前中津藩主の奥平昌服に嫁ぎますが、安政元年(1854)に離縁となり、江戸の会津藩邸に戻りました。
離縁の理由ははっきりしないそうです。
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れた後、会津藩の江戸総引揚げで、照姫も若松城に入りました。
容保の正室敏姫は、既に死去しており、家中最も身分の高い女性として、会津戦争の若松城籠城戦で、城内の婦女子の総指揮にあたりました。
八重は後に次のように語っています。
入城した婦女子の役目は、兵糧を炊くこと、弾丸を作ること、負傷者の看護をすることの三つでございます。
大きなお釜を幾つも並べておいて順々に炊ける傍(そば)から握(むす)びますが、炊き立てのご飯でございますから、熱くて熱くて手の皮が剥けそうになります。
一つ握んでは水に手をつけ、また一つ握んでは水につけていましたが、それではなかなか追いつきません。それに、この水の中へ落ちた御飯も捨てるどころではございません。それは後でお粥にして負傷者に食べさせました。
黒く焦げたところや、土に落ちて兵糧にならぬところは、私ども女たちがいただいておりました。汚いとか、気味が悪いとかいうことは、そのときは、まったく考える暇がございません。
まさの昨日の「八重の桜」の場面どおりですね。
婦女子の戦いで、特に目覚ましいものは、傷病者の看護でした。
古川春英の指揮のもと、婦女子は傷病者の看護に注力しました。
佐川官兵衛が指揮して城外に出撃した「長命寺の戦い」では、大勢の負傷者が出たため、病室は満杯となり、包帯もなくなりました。
そこで、照姫は、自分の着物を出して、負傷者にかけてやったり、切り裂いて包帯として利用しました。
こうした照姫の温かい思いやりは傷病兵はもちろん、まわりの人たちの心をゆさぶりました。
そのため、籠城している婦女子たちは、この姫様は何としてもお守りしなくては、改めて決意を固めたといいます。
会津戦争後は、滝沢の妙国寺で謹慎した後、。翌年2月に東京青山の紀州藩邸にお預けが決まり上京しました。
これらについては、また後日かきたいと思います。